誇り高き豊臣一門の城   - 日出城 -

2014-06-19 00:22:35 | うんちく・小ネタ
日出城  ひじじょう    (大分県速見郡日出町)






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穏やかな波が打ち寄せる別府湾。


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日出城は、別府湾に臨む小高い丘に築かれています。


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石垣が松の緑に映えて、見事です。


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本丸の東南隅に、ひときわ高く築かれた天守台。


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天守台に登ると、真っ青な別府湾が視界一杯に広がります。

かつて、ここに三層の天守が上げられていました。
天守からの眺望は、一段と素晴らしかったことでしょう。


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慶長5年(1600)、関ヶ原合戦に勝利し、政権を手中にした徳川家康は、全国規模で大名の配置換えに着手します。

その流れの中、慶長6年4月に木下延俊(きのした のぶとし)が、豊後国速見郡で3万石を与えられ、播磨の姫路より移ってきました。
そして、慶長7年からおよそ一年がかりで日出城を築きました。





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延俊は、豊臣秀吉の夫人・おね(ねね)の実兄・木下家定(きのした いえさだ)の息子です。
つまり おね の甥にあたります。

近畿地方から九州への領地替えは、ちょっと考えると豊臣→徳川への政権交代に伴う左遷人事というイメージが思い浮かびます。
しかし、実際には細川忠興の領地替えに関係しているようです。
延俊の妻は、忠興の妹でした。
忠興は、関ヶ原合戦の論功行賞によって、丹後国12万石から、豊前国37万石に加増され、中津城(大分県中津市)に入りました。

家康および後の江戸幕府は、しばしば姻戚関係にある大名同士を同じ地方に配置しました。
その地方の統治を、連携して行わせるのがねらいだったと考えられますが、おそらく延俊の日出への移封も同様の期待を受けていたのでしょう。

日出は付近にいくつかの良港を持ち、海上交通の要衝でした。
また、日出城も3万石の分を超えるほど立派な城に築かれていました。

日出城を見ていると、延俊の自負が強く現れているように思えます。
その後、木下家は歴代がここを居城とし、明治維新に至りました。


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日出の城下町の一角にある若宮八幡神社。

木下家の歴代藩主が崇敬した神社です。
ここで、めずらしいものに気付きました。


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江戸時代中期の享保4年(1719)、当時の藩主・俊量(としかず)が寄進した石鳥居です。
ここには、「豊臣」の姓が堂々と刻まれていました。

徳川の世になってからは、豊臣の名を出すことは憚られるようになりました。
しかし、延俊に始まる日出藩・木下家は、豊臣の一門であることを誇りに思い続けていたことが、ここにはっきりと示されています。



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