「安土城に火を放ったのは誰か? ①」

2013-09-02 23:20:26 | うんちく・小ネタ
ところで、一体誰が、何の目的で安土城に火を放ったのでしょうか?

この謎について考える前に、まず本能寺の変から安土城焼失までの経緯を、『信長公記』・『兼見卿記』など、信憑性の高い史料に基づいて下記にまとめてみました。


6月02日.....本能寺の変、織田信長自害
6月03日.....安土城の留守居・蒲生賢秀、信長の側室・子供を連れ日野城に退避、
      安土城には木村高重が残る
6月05日.....明智光秀、安土城を占領
6月08日.....明智光秀、安土城の守備を女婿・明智秀満に任せ、坂本城に戻る
6月13日.....山﨑合戦、明智光秀は羽柴秀吉に敗れ、退却中に落武者狩りに遭い死亡
6月14日.....明智秀満、安土城より全軍を率いて坂本城に退却
6月15日.....安土城焼失


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明智秀満による安土城放火説には、作為あり!
 


さて、安土城放火の「容疑者」として、古くから名前が挙がっていた人物が2人います。


まず1人目は、明智光秀の一門の武将・明智秀満(あけち ひでみつ)。

光秀が安土城を占領後、秀満はその守備を任されていました。
しかし、山崎合戦での光秀の敗死を知り、坂本城に退却します。
その際に、秀満が安土城に火を放ったとする説があります。

この説は、『惟任退治記』・『太閤記』などの記述がもとになっていますが、果たしてそうでしょうか?
明智秀満が安土城を退却して、坂本城へ向かったのは6月14日未明。大津付近での敵との遭遇を巧みにかわしつつ、その日のうちに坂本城に入城しています。
そして、安土城が焼失したのは6月15日なので、秀満の放火は有り得ない話です。

そもそも『惟任退治記』も『太閤記』も、秀吉サイドの著者によって、秀吉を善玉・光秀を悪玉として書かれた物語ですから、秀満が安土城に放火したという記述もその文脈上にあると考えるべきでしょう。

ちなみに、坂本城に戻った秀満は、やがて秀吉方の大軍に城を包囲され、ついに自刃を決意します。
その時、明智家に所蔵されていた茶道具・武具などの天下の名物を、戦火で消滅させてはならないと考え、目録を付けて秀吉方の武将に渡したという逸話は有名です。
この逸話からも、破れかぶれになって、安土城に放火するような人物とは思えません。



(以下次号)

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明智秀満 余話 ~湖水渡りのヒーロー伝説~


5


滋賀県大津市の打出浜には、「明智左馬之介湖水渡り」の故地を示す石碑が建っています。
ここに記された「明智左馬之介」とは、明智秀満のことです。


さて、「湖水渡り」とは何かと言いますと・・・・

「山崎合戦での光秀の敗死を知りった秀満は、安土城を撤退し、坂本城を目指します。
しかし、ここ打出浜の辺りにさしかかると、すでに秀吉の軍勢が進出していました。
そこで秀満は、敵との遭遇を避けるために、馬に騎したまま琵琶湖に乗り入れました。
そして、そのまま湖を泳ぎ渡って、無事に坂本城へ帰城しました。」

そんな話が、『川角太閤記』に載っています。

実際には湖水渡りではなく、湖岸と町屋の間を巧みに走り抜けて、坂本城へ向かったようです。

兵を率いての鮮やかな進退。
そして最期を迎えた時、後世に伝えるべき名物を敵将に贈る爽やかさ。

明智秀満は、江戸時代にはヒーローとして語り伝えられていました。


なお、この石碑に刻まれた「明智左馬之介」という名は、江戸時代に書かれた『明智軍記』などにのみ登場するものです。
秀満が実際に「左馬之介」を名乗ったという記述は、信頼できる史料では確認されません。





2


石碑の側面には、「天正十年六月十四日」の文字が刻まれています。
まさに、安土城焼失の前日です。

秀満は完全に安土から遠ざかっていたのです。





4

打出浜からの琵琶湖の眺めです。
今は静かな湖畔の風景です。


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