松山城 (愛媛県松山市)
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![289 289](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/68/296b8e5b9dd4ac2f42bd1d1f592414db.jpg)
松山や 秋より高き 天主閣
明治24年(1891)、正岡子規が詠んだ有名な俳句です。
![279_2 279_2](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/61/264541a6d32aa017032c92dd5aad147a.jpg)
空を背景として、高くそびえる天守と櫓。
![280 280](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/91/c1213ee2a1e554d4b6d675b76b1e794b.jpg)
標高132メートル、堂々とした城山の山容。
![219 219](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/b9/8f0653ffc17cf62087c3176b11a64a60.jpg)
広々とした道後平野の眺望。
本丸に立てば、今なお子規が俳句を詠んだ情景を実感できるような気がします。
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「てんしゅ」に閣(かく)を付けて、「てんしゅかく」・・・。
さて、お城好きの観点から、この俳句にはもうひとつ興味深い点があります。
それは、「天守閣」(天主閣)という言葉が広く使われるようになった、比較的早い例だということです。
意外に思われるかもしれませんが、日本のお城を象徴する建物・天守について、「天守閣」という俗称が
生まれたのは、実は明治時代に入ってからなのです。
現在、確認できる中で、「天守閣」という言葉が登場する最古の史料は、伊勢神戸城(三重県鈴鹿市)に建てられた「神戸城址天守?碑」という石碑です。
これは、明治9年(1876)10月、旧神戸藩士たちが、すでに廃城となっていた伊勢神戸城址に、その由緒を後世に伝えるために建碑したものです。
しかし、この時期には、まだまだ「天守閣」という呼び名は普及していなかったようです。
松本城(長野県松本市)を例にみると、明治6年(1873)9月に地元有志が、天守の保存を求めて県に提出した請願書では、「天守櫓」という言葉が用いられています。
現在はあまり耳にしませんが、「天守櫓」は江戸時代によく使われた呼び名です。
その後、明治34年(1901)に天守の永久保存を目的とする「松本天守閣保存会」が発足しました。
ここに、松本にも「天守閣」という言葉が普及していたことが分かります。
なお、明治後期になると、「天守閣」という言葉が各地で使われていた例が、史料上でもよく見られるようになってきます。
想像の域を出ませんが、もしかすると正岡子規が詠んだ
松山や 秋より高き 天主閣
という俳句が、「天守閣」(天主閣)という呼び名の普及に一役買っていたのかも知れませんね。
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松山や 秋より高き 天主閣
明治24年(1891)、正岡子規が詠んだ有名な俳句です。
![279_2 279_2](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/61/264541a6d32aa017032c92dd5aad147a.jpg)
空を背景として、高くそびえる天守と櫓。
![280 280](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/91/c1213ee2a1e554d4b6d675b76b1e794b.jpg)
標高132メートル、堂々とした城山の山容。
![219 219](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/b9/8f0653ffc17cf62087c3176b11a64a60.jpg)
広々とした道後平野の眺望。
本丸に立てば、今なお子規が俳句を詠んだ情景を実感できるような気がします。
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「てんしゅ」に閣(かく)を付けて、「てんしゅかく」・・・。
さて、お城好きの観点から、この俳句にはもうひとつ興味深い点があります。
それは、「天守閣」(天主閣)という言葉が広く使われるようになった、比較的早い例だということです。
意外に思われるかもしれませんが、日本のお城を象徴する建物・天守について、「天守閣」という俗称が
生まれたのは、実は明治時代に入ってからなのです。
現在、確認できる中で、「天守閣」という言葉が登場する最古の史料は、伊勢神戸城(三重県鈴鹿市)に建てられた「神戸城址天守?碑」という石碑です。
これは、明治9年(1876)10月、旧神戸藩士たちが、すでに廃城となっていた伊勢神戸城址に、その由緒を後世に伝えるために建碑したものです。
しかし、この時期には、まだまだ「天守閣」という呼び名は普及していなかったようです。
松本城(長野県松本市)を例にみると、明治6年(1873)9月に地元有志が、天守の保存を求めて県に提出した請願書では、「天守櫓」という言葉が用いられています。
現在はあまり耳にしませんが、「天守櫓」は江戸時代によく使われた呼び名です。
その後、明治34年(1901)に天守の永久保存を目的とする「松本天守閣保存会」が発足しました。
ここに、松本にも「天守閣」という言葉が普及していたことが分かります。
なお、明治後期になると、「天守閣」という言葉が各地で使われていた例が、史料上でもよく見られるようになってきます。
想像の域を出ませんが、もしかすると正岡子規が詠んだ
松山や 秋より高き 天主閣
という俳句が、「天守閣」(天主閣)という呼び名の普及に一役買っていたのかも知れませんね。
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