『もっと公平であるべきだ。』
あるイベントに対してそう発言した人が居る。
イベントは一定の年齢以上の人であれば誰でも参加可能だ。
一時期、参加者が50人以上もあった。
ところが年を経る毎に参加者が減少した。
参加可能な人は増加しているにも拘わらず、何故減少したのか。
原因は幾つかあると思う。
イベント自体が興味を引かなくなったのかも知れない。
参加を促す公報活動が不十分であったかも知れない。
いずれにせよ原因があるから、結果がある。
イベント自体の問題だとしたら、それは主催者側の問題かも知れない。
イベントの中身が面白くないから興味を引かないのか。
参加者に質問したところ意外な回答もあった。
一緒に来る人が居るから参加するという意見だ。
なるほど、興味の対象はイベントの中身だけとは限らないと言うことだ。
主催者側に訊けば、公報活動はしているという。
主催者側の公報だけで無く、口コミという宣伝活動もあるはずだ。
物事には多面性が有り、固定観念を持って分析してはならない。
公報活動が充分かどうかは簡単には計れない。
しかし、活動をするには資金が必要だ。
資金に見合った活動、活動に見合った資金が確保されているのだろうか。
活動をするに当たっては工夫が絶対的に必要だ。
50人もの人が参加していたときの工夫を先ずは分析するべきだろう。
イベントの存続も合わせて考えれば、イベントの社会的位置づけもある。
どうでも良いイベントなら無くせば良い。
社会的に意義があるのなら、簡単に消滅させてはいけない。
実はこのイベント、公的な資金援助がなされている。
何故『公』が前面に出てくるかと言えば、そこには『公』の企みもある。
民間の力を借りて、少ない援助で最大の効果を狙うためだ。
私に言わせれば、『こんなことは『公』が全面的にすべきこと。』
それが出来ないのは、資金不足だからだ。
金が絡んだところで、冒頭の課題が浮かぶ。
『もっと公平であるべきだ。』
彼の人が言うには、全員参加が『公平』だという。
しかし、諸般の理由で参加出来ない人が居ることも事実。
『参加出来ないなら何らかの形で資金を公平に分配すべき。』と主張する。
公報も100%完全では無いし、参加したくない人も居る。
参加出来る対象者全員に資金を分配することなど出来るはずは無い。
仮にコンサートがあったとして、全員が参加しようとは思わない。
興味の問題、時間的制約の問題、健康上の問題などもある。
所詮、どんなイベントであれ参加する人は限られる。
独裁国家で参加命令があったとしても、『病気』と言い逃れはできそうだ。
どんなイベントであろうと、参加は自由意志であるべきだ。
『公平』とは何か、広辞苑を紐解いた。
『かたよらず、えこひいきのないこと。』とある。
ついでに『平等』についても調べた。
『かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと。』とある。
言葉の概念は解るが、状態として人間界には存在しないことだ。
『公平』のほうが『平等』よりは可能性がありそうではあるが。
話を『イベント』に戻す。
情報に偏りがあったかも知れないが、情報が行き渡るよう努力している。
『かたより』は充分に少ないと言えよう。
参加に対して『えこひいき』もしているとは思えない。
即ち、イベントは公平を保っている。
人には選択の自由が有り、参加するのも選択の一つだ。
助成金の額が問題だとしたら、適正値にする必要はあるだろう。
50人の時と、大幅に減少した今とが同じ助成金額ではおかしい。
ひょっとしたら、ここに多少の『えこひいき』があるかも知れない。
『公』が絡むと色々なところで難しい。
民間が充分にえこひいきをしてイベントを催すのが良い。
民間だからこそ、偏見で参加者を決めるのも一つの方法である。