古稀を過ぎた主夫の独り言日記

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おもうこと

2022-12-06 13:29:23 | 主夫のつぶやき
人は誰もとは言わないが、おおよそ自負心なる物がある。
私の場合を基準に考えれば『私はこんな人』という形を持っている。
『こんな人』の『こんな』には悪い印象のものは無い。
自分は良い人だと思っているからだ。
悪を気取るごく一部の人を除けば、自分を良い人に分類するだろう。
ところが、その自分が時に他人を評価しようとすると大きく二分される。
好印象の人は『良い人』であり、癖の強い人は『悪い人』だ。
何処に基準があるか解らないが、人それぞれの基準を持つ。
所謂『馬が合う』人は良い人に分類されがちであると言うこと。
そして、良く衝突する人や『馬が合わない』人は悪い人だ。
私はあからさまには『悪い人』という評価はしない。
悪い人を例えば『傲慢』『親分気取り』『お調子者』のように分類する。
あくまでも私の評価である。
ところが、別の人にその人の印象を尋ねると私の評価と正反対の人もいる。
私に見せる顔と、その人に見せる顔が違うのだろうか。
それとも、評価基準の違いなのだろうか。
これを我が身に置き換えると、評価が気になりだした。
私は一つの評価では表せない、複雑な性格や感情を持った人である。
こういう一面もあるが、こういう一面も持つ。
人と接したとき、私のどの面を出すかは異なっている。
それは関わりの深さや、時間的長さ、立場の違いなどで異なる。
だから私の何もかも知っている人はいないし、伝えもしない。
結局人は他人の一面だけを評価しているのだろうか。
いや、それも違う。
長く付き合えばその人の本質が見えてくるのではないか。
とかくそう考えがちだが、実際には思い込みが一番かも知れない。
第一印象が大切とは、そういうことなのだろう。
『この手の人』と最初に大きい分類で体系分けしてしまうのだ。
それが『馬が合う・合わない』ということだろうか。
そうは言っても、好印象を残した人とそうで無い人の差は大きい。
昔、仕事をまだしていた頃のこと。
『一度は許すが、二度はもう許さない』
こんなことを言って、ある上司を毛嫌いしたことがあった。
私を酷評した上司だったが、有る日仲間の前でまたしても私を酷評した。
その上司とは余り話したことも無いし、関係した時期も短期間だった。
それなのに何故、そんな評価が出来たのだろう。
私はそれ以来その上司を『無視』した。
それから20年弱が経ち、再びその上司と仕事をすることになった。
役職定年になった上司は、立場が逆転し、なんと私にすり寄ってきた。
表面づらこそ話はする物の、最初全く無視していた。
しかし、その弱々しい姿を見るにつけ『可哀想』と思うようになった。
そして私は、有る日を境にその上司を許したのだ。
評価が180度転換した瞬間だった。
そもそも、私は他人を評価できるのだろうか。
『好き嫌い』とか『馬が合う合わない』はひとときの気分ではないか。
かたくなに思うことも必要なく、平易に対面すれば済むことだ。
人を評価することは意味が無く、その仕事を評価すれば良いだけのことだ。
ただ、それだけのことだ。
コメント
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