気がつけば60代も後半戦

ブログ開設から六年以上が経ちました。「気がつけばアラ還!!」「シニア女子の日々」から名称変更です。

グレーヘアは似合わない

2022-11-27 05:55:27 | 日記
久しぶりに会った人が素敵なグレーヘアだった。
しかし、私には似合わないと思う。二ヶ月おきにカラーリングしているが、染めるのは根元だけ。一年に一回ぐらい全体染めるのでダメージは少ない。
もしかしたら、あまり白髪は多くないほうなのもかもしれない。四十代から確かに白髪は
あったが、白髪染めはしていなかった。いわゆるお洒落染めはしていたが。
先日、「髪の毛染めてないの?」と訊かれた。自然だったのだろうか。美容師の腕というか、美容院の染料がよい。
私はやや童顔の部類でグレーヘアは似合わないと思っている。また、白髪が年齢を感じさせるものだとしたら、仕事がら、見た目、まだ、お婆さんであってはいけない。
それでも、美人であれば、グレーだろうが、ブラックだろうが関係ない。なんでも似合うのだろう。

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IT社会を感じる日々

2022-11-23 21:33:25 | 日記
今日、勤労感謝の日はZoomで研修。ポイントを貯めないと資格が更新されないので、やむを得ずというより講師が関わりのある人であったため、申し込んだ。コロナが入ってきて以来、Zoomはよく使われるようになった。先週は職場の会議がZoomだった。記録をやることになり、面倒だなあと思いつつも慣れていかないといけないのだろう。今日の研修は一度通信が途絶えた。ポケットWifiの限界なのか、豪雨のせいか電波が途絶えた。丸一日なるときつい。今後、仕事で使うなら、ひかりやCATVを契約しないとお客さんに迷惑をかけてしまう。
日曜日はチケットがとれなかったライブをスマホの生配信で楽しんだ。アーカイブ視聴なしなので繰り返し見ることはできない。
世の中変わってきた。セルフレジも多い。店によって少し使い方も違い、近くないとバーコードが読めない、近すぎて読めないなど様々である。ついていけないと思いつつ逃げていたら、困るのは自分だと言いきかせて少々時間かかることがあっても使う。慣れると早いもので、コンビニは店員さんにやってもはうより時間かからない。
IT社会になったものだ。不要になるものが増えてくる。生き延びていくのは、いかに利用していくかにかかっている。







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疲れた!

2022-11-18 09:08:58 | 日記
唐突に疲れた。
昨日は電話で済ませることも考えたが、仕事が終わってから、他の職場で相談にのった。20分くらいで終わるかと思ったら、一時間くらい話を聴いた。行って良かったとは思ったが、前日は往復100キロを超える会場へ行っており、疲れはMAX。
日曜日から始まって五日目の仕事は終了。年齢的に週四日くらい働くのが妥当なのかもしれないと思いつつ、ご褒美に特ヒレカツ弁当を買って帰る。高カロリーゆえ半分だけ食べ、翌朝にとっておく。
不満を言う暇もなく過ぎていく日々。十年前を思いだすと現在の姿は想像できない。独学で院受験を繰り返し、二次の面接で落とされていた。多分、年齢差別と後の教官となる人も言っていたが、「夫の了解は得てるのか」とアカハラ的な質問もあった。信じられない。受験に夫の了解は時代錯誤的だ。妻のやろうとしていることに夫の承諾があるか尋ねるなんて!!
仮面夫婦ゆえ、夫なんて関係なかった。
結局は、夫に保護されつつ趣味で仕事しているというより、今は自立している。しんどいと思いつつも望まれて仕事ができるのは悪いことではない。
今日は、午後からZoom会議の後、四つ目の職場へ出勤する。週六日の稼働が終了。
五年くらい前は十日連勤とかあったし、なんとかなるもの。
でも、疲れた。

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冷たい娘と母息子関係

2022-11-12 06:40:59 | 日記
今になると、母の気持ちがわかる。私の母は大正末期の生まれで生きていれば98くらいになるだろうか。
裕福な家庭に生まれながらも幼い頃に生母を亡くし、結婚してからは30歳で夫が亡くなっている。兄姉の支援はあったものの肉親の縁が薄い。
女手ひとつで商売をはじめ、お手伝いさんを雇ったり、なかなかのやり手の反面、精神的には子どもに依存していた。私は、そんな母親からしたらとても冷たい娘だったらしい。普通だと思うのが、母にとっては冷たいと感じられていたようだ。兄は母には優しかった。予想外に早い結婚で狭い家なのに兄を手放せず、同居した。お嫁さんにあたる義姉はかなり惚れていたのか一緒になれるならと同居にも同意した。これは、実は不幸のはじまりだったのかもしれない。兄は三十代に入り体調を崩した。いわゆる心の不調である。職場に原因があったのか?今、思うと歪んだ家庭システムの犠牲にもなっている。しかし、兄は母から離れることはできなかったのだ。世話女房の義姉もいて母が二人いるような状態だったのではないか。
現在は、若いころの病気が原因なのか再発しているのか、介護の状態らしい。親族二人をみてもらい義姉には申し訳ないと思うが、面倒みすぎもあまりよくないように思う。
私はなぜ結婚したのか。兄と義姉、母のいる家を出るためだったのだと思う。結婚という円満な形で出る。女手ひとつで育てた母への贈り物にすぎなかったのかもしれない。
夫も早世した姉の代わりに新しい家族をといった思いもあったのだろうか。お互い、親のための結婚でもあったことは否定できない。事実、盛大な結婚式は親の披露宴でもあった。
母がいつまでも働いていたのは息子家族のためでもある。一時、仕事を失った兄のために稼ぎ、開業する兄のために自分の部屋を提供した。提供しておきながら、私が病気になったらどうするのかしらと言っていたことを思い出す。母にとって家族は生き甲斐だったのだ。
私も息子にはずいぶん、言い方はおかしいが貢いできたように思う。息子も体調を崩して支援したが、やはり、手放そう。私が元気なうちしかできない。
母はレストランに入っても、自分で食べる物を決めない人だった。私と同じ物でいいというのだ。同じ空間にいることが、安心なのか、依存なのかはわからない。
私は兄のように、母の要求に応える娘ではなかったが、孫たちと毎年、旅行を計画して一緒に行った。この旅行が最大の親孝行だったらしい。私は冷たい娘だったから期待はしていなかったと言っていた。

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十年経ちました

2022-11-09 19:22:53 | 日記
気がつくと、このblogは10年経っていた。2012年の11月に娘が家を出ていったのがきっかけだったように覚えている。
ビンボーだった。
ごく親しいひとたちはビンボーに気がついていて、食事をよく奢ってくれていたが、多くの人は私のビンボーに気がついていなかった。
蓄えていた現金が底をついた。アルバイトも掛け持ちして食いつなぐ日々だった。お金を
稼ぐことの厳しさを身にしみた頃であった。
これからの十年はどうなるのだろう。大きな病気をしたり、不慮の事故がなければ、まだ、この世に存在はしているだろう。
少し、今までかけなかったところにお金をかけてから慎ましく暮らしていくとは思う。


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