今になると、母の気持ちがわかる。私の母は大正末期の生まれで生きていれば98くらいになるだろうか。
裕福な家庭に生まれながらも幼い頃に生母を亡くし、結婚してからは30歳で夫が亡くなっている。兄姉の支援はあったものの肉親の縁が薄い。
女手ひとつで商売をはじめ、お手伝いさんを雇ったり、なかなかのやり手の反面、精神的には子どもに依存していた。私は、そんな母親からしたらとても冷たい娘だったらしい。普通だと思うのが、母にとっては冷たいと感じられていたようだ。兄は母には優しかった。予想外に早い結婚で狭い家なのに兄を手放せず、同居した。お嫁さんにあたる義姉はかなり惚れていたのか一緒になれるならと同居にも同意した。これは、実は不幸のはじまりだったのかもしれない。兄は三十代に入り体調を崩した。いわゆる心の不調である。職場に原因があったのか?今、思うと歪んだ家庭システムの犠牲にもなっている。しかし、兄は母から離れることはできなかったのだ。世話女房の義姉もいて母が二人いるような状態だったのではないか。
現在は、若いころの病気が原因なのか再発しているのか、介護の状態らしい。親族二人をみてもらい義姉には申し訳ないと思うが、面倒みすぎもあまりよくないように思う。
私はなぜ結婚したのか。兄と義姉、母のいる家を出るためだったのだと思う。結婚という円満な形で出る。女手ひとつで育てた母への贈り物にすぎなかったのかもしれない。
夫も早世した姉の代わりに新しい家族をといった思いもあったのだろうか。お互い、親のための結婚でもあったことは否定できない。事実、盛大な結婚式は親の披露宴でもあった。
母がいつまでも働いていたのは息子家族のためでもある。一時、仕事を失った兄のために稼ぎ、開業する兄のために自分の部屋を提供した。提供しておきながら、私が病気になったらどうするのかしらと言っていたことを思い出す。母にとって家族は生き甲斐だったのだ。
私も息子にはずいぶん、言い方はおかしいが貢いできたように思う。息子も体調を崩して支援したが、やはり、手放そう。私が元気なうちしかできない。
母はレストランに入っても、自分で食べる物を決めない人だった。私と同じ物でいいというのだ。同じ空間にいることが、安心なのか、依存なのかはわからない。
私は兄のように、母の要求に応える娘ではなかったが、孫たちと毎年、旅行を計画して一緒に行った。この旅行が最大の親孝行だったらしい。私は冷たい娘だったから期待はしていなかったと言っていた。