十年前、ダブルワークを一旦中止した。勤めていた会社の業績が悪く給与が下がると言われたからである。小さな会社だったが、現在も健在である。
半年、休んで同業の、かなりバックの大きな会社に就職した。当時としては、この歳でこの会社と思えるくらいヒットだった。しかし、女所長のパワハラの鉾先が自分に向けられた。自分には根性なかった。当時、難聴とめまいに苦しんでいた。病んでいた左耳で電話がとれなかった。体調もよくなくて翌年、あっさり、退職してしまった。
仕事、ひとつだけは、お小遣い程度でにしかならなかったが、子どもたちに生活費を、入れて貰っていたので、なんとか食べていくことはできた。
入れてくれた生活費を子どものために貯金しておくなど世間の親のすることはできなかった。子どもたちには、父親が卒業祝に多額のお金をあげているので十分だとは思った。
耳は奇跡的に回復した。治るという根拠のない自信だけはあったが、どこの医者にも見放されても諦めないことが大事である。夫が入っていた保険や、私の会社の共済金などで、半年くらい、少ない仕事でも、のんびり生活できた。
就活をはじめたが、五十代も後半になり厳しかったが、割り切って短期のコールセンターの仕事を繰り返した。若い学生時代とった資格を生かした時短の仕事。国勢調査、選挙の受付、中元、歳暮の時期の裏方仕事など。一度やると、また、声がかかる。コンスタントではないが、子どもたちからもお金を入れて貰っていたのでなんとかなった。
もう、六年くらい前だろうか娘が家をでた。この時期にこのブログは始まる。娘は食費以外にも結構助けてくれていた。精神的にも、つらかった。金銭的には豊かでなかったが単発の仕事は途絶えることがなかった。
思いきって、大きな組織を辞めて、長年貯めた退職金や投信を解約して大学院へ入学した。アラ還院生の誕生。
無謀な投資にも思えたが、おそらく仕事はある。学費分くらいは取り戻せると考えた。生活を支えるアルバイトが会社の事情でなくなってしまったこともあったが、次にすぐ仕事が、決まることを繰り返し卒業。高時給はありがたかった。
資格試験に合格しても、年齢がネックでなかなかメインになる仕事が決まらない。若手のように高収入、好待遇は望めないが仕事はある。非正規というよりフリーランスというのが相応しい。
十年を振り返ると「諦めない」ことが、私を救っている。実は諦めて損をしていることもかなりあることに気がつく。
半年、休んで同業の、かなりバックの大きな会社に就職した。当時としては、この歳でこの会社と思えるくらいヒットだった。しかし、女所長のパワハラの鉾先が自分に向けられた。自分には根性なかった。当時、難聴とめまいに苦しんでいた。病んでいた左耳で電話がとれなかった。体調もよくなくて翌年、あっさり、退職してしまった。
仕事、ひとつだけは、お小遣い程度でにしかならなかったが、子どもたちに生活費を、入れて貰っていたので、なんとか食べていくことはできた。
入れてくれた生活費を子どものために貯金しておくなど世間の親のすることはできなかった。子どもたちには、父親が卒業祝に多額のお金をあげているので十分だとは思った。
耳は奇跡的に回復した。治るという根拠のない自信だけはあったが、どこの医者にも見放されても諦めないことが大事である。夫が入っていた保険や、私の会社の共済金などで、半年くらい、少ない仕事でも、のんびり生活できた。
就活をはじめたが、五十代も後半になり厳しかったが、割り切って短期のコールセンターの仕事を繰り返した。若い学生時代とった資格を生かした時短の仕事。国勢調査、選挙の受付、中元、歳暮の時期の裏方仕事など。一度やると、また、声がかかる。コンスタントではないが、子どもたちからもお金を入れて貰っていたのでなんとかなった。
もう、六年くらい前だろうか娘が家をでた。この時期にこのブログは始まる。娘は食費以外にも結構助けてくれていた。精神的にも、つらかった。金銭的には豊かでなかったが単発の仕事は途絶えることがなかった。
思いきって、大きな組織を辞めて、長年貯めた退職金や投信を解約して大学院へ入学した。アラ還院生の誕生。
無謀な投資にも思えたが、おそらく仕事はある。学費分くらいは取り戻せると考えた。生活を支えるアルバイトが会社の事情でなくなってしまったこともあったが、次にすぐ仕事が、決まることを繰り返し卒業。高時給はありがたかった。
資格試験に合格しても、年齢がネックでなかなかメインになる仕事が決まらない。若手のように高収入、好待遇は望めないが仕事はある。非正規というよりフリーランスというのが相応しい。
十年を振り返ると「諦めない」ことが、私を救っている。実は諦めて損をしていることもかなりあることに気がつく。