伏見城(京都府)
模擬大天守、小天守 模擬大天守、小天守
別名 桃山城、木幡山城
京都浪漫 悠久の物語|KBS京都
第113回 家康ゆかりの京をめぐる~伏見城・二条城・金地院~
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私なりの思い出のホームページです
伏見城
伏見城(ふしみじょう)は、現在の京都市伏見区の桃山丘陵にあった日本の城。
歴史
豊臣秀吉の没後、正室の北政所は慶長8年(1603年)に後陽成天皇から「高台院」の号を勅賜されると、秀吉の菩提を弔おうと寺院の建立を発願し徳川家康もその建立を支援した。高台寺の創建地は、元々は黄金八丈の阿弥陀如来像(大仏)を安置する雲居寺の境内であったが、応仁の乱で焼失していた。
家康と高台院は、現在高台寺や塔頭・圓徳院があるこの地にあった岩栖院を南禅寺の境内に塔頭として移転させると、慶長10年(1605年)に高台院は実母である朝日局が眠る康徳寺(現・上京区上御霊馬場町にあった)をこの地に移転させて新たな寺院・高台寺を建立し、その境内を整えていった。また、高台院は高台寺の西側に自らの屋敷と甥の木下利房の屋敷を造営することとし、同年に伏見城にあった北政所化粧御殿とその前庭を移築して自らの邸宅・高台院屋敷とした。
高台寺(髙臺寺、こうだいじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は鷲峰山(じゅぶさん)。本尊は釈迦如来。寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格を持った寺院である。元々は黄金八丈の阿弥陀如来像(大仏)を安置する雲居寺の境内であった。
霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを「高台寺蒔絵」と呼ぶ。他に北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の通称がある。夜間拝観を京都で最初に行い始めた寺院である。
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高台寺は、豊臣秀吉の正妻ねねが、夫の菩提を弔うために建立した寺。
開山堂に続く屋根付きの渡り廊下の途中にあるのは観月台(重要文化財)いずれも居城であった伏見城から移築した。
二条城
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東南隅櫓
二条城は、慶長8年(1603年)、徳川将軍家康が造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626年)に完成。そして1867年 慶応三年に15代将軍の慶喜が大政奉還を発表したのもここであった。まさに徳川家の歴史に立ち会って来たと言える。
豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されて、いわゆる桃山時代様式の全貌を見ることができる。
寛永期に建てられた隅櫓が本来四隅にあった、天明8年の大火の際に2つが焼失し、今はこの東南隅櫓と西南隅櫓が残っているだけ。
金地院
南禅寺の塔頭の一つ、東照宮門。
以心崇伝の住坊。寺内に家康を祀る東照宮がある。この門は日頃は使われていない。
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金地院(こんちいん)
は、京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の寺院。大本山南禅寺の塔頭。本尊は地蔵菩薩。江戸幕府の法律や外交を担った僧・以心崇伝が住したことで知られる。僧録司が置かれ、一塔頭寺院に留まらず江戸時代を通じて五山十刹以下全ての住職の任命権を持つ事実上の最高機関とされた。また10万石の格式を持ち、「寺大名」とも呼ばれた。小堀遠州作の庭が国の特別名勝に指定されている。
徳川家康の遺言による3つの東照宮のうちの一つがあり、江戸幕府による増改築が度々なされた。京都三名席の茶室がある。
以心崇伝像(狩野探幽筆)
応永年間(1394年 - 1428年)に、室町幕府第4代将軍足利義持が大業徳基(南禅寺68世)を開山として洛北・鷹ケ峯に創建したと伝えるが、明らかではない。
慶長10年(1605年)、徳川家康の信任が篤く、江戸幕府の幕政に参与して「黒衣の宰相」と呼ばれた以心崇伝(金地院崇伝)によって現在地に移され、南禅寺の塔頭とし、自らの住坊として再興された。
慶長15年(1610年)には駿河国・駿府城内に駿府金地院が、元和5年(1619年)には江戸城内北ノ丸に江戸金地院が開かれ、駿府と江戸における崇伝の活動拠点となった。
崇伝は元和5年(1619年)に幕府より僧録に任ぜられた。それまで相国寺塔頭鹿苑院院主が務めていた僧録職は以後、幕末まで金地院住持が務め、金地僧録と呼ばれて五山十刹以下の禅寺を統括する最高機関となった。そして、10万石の格式を与えられ、「寺大名」とも呼ばれる権勢を誇った。