
先日センター試験のニュースが流れていたが”これ以上落ちない”大仏様として上野の大仏が合格祈願スポットになっているとのこと
寛永寺には2008.12に参拝しました
ホームページは ここ
上野大仏が造営されたのは、今からおよそ400年前の1631年。当時大仏様の高さは約6m。
最初は粘土で造られていた大仏様は、その後青銅製の釈迦如来坐
になり、大仏殿も建造されたそうです。そして火災や地震に遭い、その度に修復されてきましたが、1923年の関東大震災で頭部が取れて落ちてしまいます。そして第二次世界大戦のさなかに金属金属供出令により胴体と顔面以外の頭部が日本軍に供給されてしまうという数奇な歴史を持っているんです。
こうしてその姿を見ることが出来なくなった上野大仏ですが、1967年に、大仏殿があった場所に薬師三尊像を本尊としたパゴダが建立されました。その5年後の1972年に寛永寺(かんえいじ)で保管されていた顔面部をレリーフとして安置することになり、現在のお姿に。
上野大仏に降りかかった幾多の災難から”これ以上は落ちない”として、テレビなどで合格祈願のスポットとして紹介されてから、受験シーズンはもちろん、年中合格祈願にやってくる人が急増。知る人ぞ知る東京の合格祈願のパワースポットとなったそうです
ふと思い出したのが、和歌山にも大仏があったよな・・・

無量光寺の首大仏です
和歌山県和歌山市の無量光寺にある頭部のみの大仏(盧舎那仏の銅像)である。
無量光寺(むりょうこうじ)は和歌山県和歌山市吹上5-1-35 にある浄土宗の寺院。徳本上人大名号塔の寺。本尊は阿弥陀如来。「首大仏の寺」として知られる。
江戸時代の文政12年(1829年)、紀州藩10代藩主徳川治宝の命により、和歌山県日高郡出身の大行者徳本を開山、本辨を開基として京都の法然院を模して創建された。治宝は当寺を念仏道場として定め、堂塔を建立するなどして庇護した。
明治14年(1881年)に全山焼失し、規模が縮小されて現在に至る。
境内に置かれた首大仏は大福寺から移された物で、「首から上の願いを叶える」と云われ、多くの受験生らが参詣する。
ブログ 顔だけの大仏が和歌山にある はここ
2004年に参拝したが、当時はそれほど有名でもなかったように思う
寛永寺には2008.12に参拝しました
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上野大仏が造営されたのは、今からおよそ400年前の1631年。当時大仏様の高さは約6m。
最初は粘土で造られていた大仏様は、その後青銅製の釈迦如来坐
になり、大仏殿も建造されたそうです。そして火災や地震に遭い、その度に修復されてきましたが、1923年の関東大震災で頭部が取れて落ちてしまいます。そして第二次世界大戦のさなかに金属金属供出令により胴体と顔面以外の頭部が日本軍に供給されてしまうという数奇な歴史を持っているんです。
こうしてその姿を見ることが出来なくなった上野大仏ですが、1967年に、大仏殿があった場所に薬師三尊像を本尊としたパゴダが建立されました。その5年後の1972年に寛永寺(かんえいじ)で保管されていた顔面部をレリーフとして安置することになり、現在のお姿に。
上野大仏に降りかかった幾多の災難から”これ以上は落ちない”として、テレビなどで合格祈願のスポットとして紹介されてから、受験シーズンはもちろん、年中合格祈願にやってくる人が急増。知る人ぞ知る東京の合格祈願のパワースポットとなったそうです
ふと思い出したのが、和歌山にも大仏があったよな・・・

無量光寺の首大仏です
和歌山県和歌山市の無量光寺にある頭部のみの大仏(盧舎那仏の銅像)である。
無量光寺(むりょうこうじ)は和歌山県和歌山市吹上5-1-35 にある浄土宗の寺院。徳本上人大名号塔の寺。本尊は阿弥陀如来。「首大仏の寺」として知られる。
江戸時代の文政12年(1829年)、紀州藩10代藩主徳川治宝の命により、和歌山県日高郡出身の大行者徳本を開山、本辨を開基として京都の法然院を模して創建された。治宝は当寺を念仏道場として定め、堂塔を建立するなどして庇護した。
明治14年(1881年)に全山焼失し、規模が縮小されて現在に至る。
境内に置かれた首大仏は大福寺から移された物で、「首から上の願いを叶える」と云われ、多くの受験生らが参詣する。
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2004年に参拝したが、当時はそれほど有名でもなかったように思う