うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

六道の三

2021年06月13日 | ことばを巡る色色
今日もなんだか、戦っている。
ちょっとでも良い所、ちょっとでも安い、得な、ハイグレードの、誇らしい、だまされない、馬鹿な選択じゃないことをと。
試験であろうと開店であろうと先着順であろうと、とにもかくにも頭の中で「ばおおー」ほら貝が鳴る。「さて出陣じゃ」と心が騒ぐ。勝利すると頭の中で「えいえいおー」勝どきが上がる。先日もまた、募集要項を見て「ぱおおー」が鳴り、2通履歴書を送ってしまった。「合格をお知らせします」のメールに「えいえいおー」と頭の中のちっちゃい足軽たちが槍を突き上げ声をあげる。
ちっちゃい頃からそうだ。学校のテストでも、祭囃子でも、消防車でも、セールでも。とにかく戦ってしまう。勝たねば、見なければと思ってしまう。一体何と私は戦っているのよ、と思うけれど、戦いのあるところ、戦わずにいられない。
子供の時、戦いの相手はクラスメートだったりしたのだけれど、実在の人間相手の戦いは早々に終わった。人と戦うのはそう楽しいことじゃないからだろう。では、いったい何と戦っているというのかと思うけれど、性分としか言いようがないのかもしれない。自分の想定したゴールと戦う方がずっと楽しい。
仏教輪廻の世界には六道がある。上から順に、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄だ
私は今生において、人に生まれたけれど、まだまだ、修羅であるのかもしれぬと思う。修羅は、戦いの業を持ち、それ故に人より下のものである。戦いは執着であるからだ。仏教の言う「執着」が何に対するものであるか、深くは知らないけれど、私の執着は、勝って得られるものではなく、「勝つ」ということである。どちらの執着が許されぬことなのだろう。勝ってしまえば、戦いの魅力が色褪せてしまうのは、いわば、子どもの戦いであろう。そんな私は、修羅の中でも下層のものかもしれない。
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