うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

よそ者、盆踊りの町を歩く

2009年02月19日 | お出かけ
郡上八幡に来るのは何年ぶりかだ。
郡上踊りの狂おしさに夏になるたびに訪れた時期があった。夕ごはんを済ませ、盆踊り第一陣が帰り始める10時頃に着く様に行ったものだ。その頃になるとなぜかいつも雨になり、それでもみんな浴衣を雨に濡らしながら踊っているのを見、自分もその輪に入るとリフレインされる踊りの中でわけもわからずつかれたように踊ってしまうのだ。踊り疲れて町のそここにある名水を飲み、3時頃に帰ると、家につく頃には空が白み始める。
午前中に家を出て、156号線を走った。最近こちら方面へは高速を使うことがほとんどで、国道を明るいうちに走ったことがなかったかもしれない。
美濃を走る。洲原を走る。国道は長良川に沿って走る。春がやってきたような陽気の中。この道は、この川はこんなに美しかったことにはじめて気付いて、なんだか泣きたくなってしまうほどだった。
空も山も川の草も岩も。全部がこんなに美しいことってあるのだろうか。
右下には長良川、左には長良川鉄道。
一度、長良川鉄道に乗ってみたら、空の青い日に乗ったら、どんなにか幸福になれるだろうと思う。
小さい頃に、岐阜県民の歌というのをがっこうで歌った。
岐阜は木の国 というフレーズだ。
岐阜は木の国、山の国、川の国、水の国。

水の町、郡上八幡に着く。町の路地には水路が流れるよ。鯉もいるよ。


窓のばってんもゲージツ的に



懐かしいとか、レトロとか、癒されるとか、そんな言葉はどっかに行ってしまえばいい。そう言ってしまえば、もうそれはその言葉の中に閉じ込められてしまう。懐かしがるためでも、癒されるためでもないからね。わたしはね。ただ、間違いなく言えるのは、古い町にハズレはないということだ。退屈、しない。歩くだけでいい。新しい町のつまらなさと比べて、一体これはどういうことなのだろうと思う。新しいからつまらないのかな、と考えてみるけれど、ちょっと違う。失われようとするものを惜しんでいるという気持ちもあるけれど、でもそれも大きな要因でない。多分、数字で作られていないからなんだろうな。数字で考えられたものには顔も名前もなくって、覚えられない。古い町の古い家にはあるのにね。
世の中がどんどん、顔も名前もなくなっていく。数字でだけ決めた現在未来は何もわたしに語り掛けない。数字はどんどん消費され、数字を残すけれど、それがどんな姿かたちであったのか、笑ったのか泣いたのか、悩んだのか微笑んだのか、わからない。そんな中で、厚顔な人はテレビで強弁を振るうし、自分に都合のいい数字を証拠に、手品のように正当性を述べたてる。
そう考える私は、時代の波に乗れない人なのだろうか。間違ったカビの生えたカンジュセイなのだろうか。
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2 コメント

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歴史への思い (バルちゃん)
2009-02-24 14:31:10
最近カメラ趣味から古い町並みを歩くのが好きになった。

自分探しの時間のように思えるかもしれない。
歴史というツルハシを持って過去をほじくる。

自然や古い人物、事蹟をほじくっては、対話するみたいです。

出かける前に少し下調べする、すると見るものが見えるものが違って見えるから不思議だ!!

それが間違っていようが、いよまいが・・・
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digging (家主うさと)
2009-02-24 15:34:59
バルちゃん
全く、おんなじ気持ちです。
古い町は生と死が一緒に住んでいるようで、
生きることばかりが表立っている所と違って
ほじくる場所がたくさんあるよね。
今度、一緒に行きましょう。
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