うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

超えてやってくるもの

2005年12月15日 | ことばを巡る色色
言葉を聴いたり、物を見たりしたとき、ほんのたまに、頭の奥の奥の「私」であるところに、解釈やら、理解やら、分析やら、考察やら、すべてを突き抜けて、突如と届く時がある。それはデジタルもアナログも理系も文系も感性も理性も、すべての取捨選択を超えて、やってくる。物に触れた途端に、びゅうーーんと、光のように飛んでくる。その「真」は、揺るがない。それに比べれば、なんと世の中は瑣末な分別に満ちていることだろう。好きとか嫌いとか、正しいとか間違っているとか。無用長舌な議論とか。
私は信じている。私の奥の奥の「私」で感じたもの、いや、それは「感じた」という言葉のカテゴリーの中にも入らないもの。「啓示」のように、それまでのすべての迷いを解いていくものだ。そうだったのだ、これが「真」であったのだと、届いた途端に、すべての細胞に、その「了解」が伝えられ、私は細胞のレベルまで納得する。「ああ、そうだったのだ。」それだけが、「言葉」となり、起立する。「言葉」で理解しようとしていたことは、この一瞬の「了解」のために試されていたことに過ぎない。ゆるりゆるりと周りを辿っていたに過ぎない。
「言葉による思考」は、これに比べれば、取るに足らないものだ。しかし、この了解を得るためには、「言葉による思考」の何万回もの繰り返しがされなければならないのも、また事実だ。たとえれば、湯川秀樹博士が、研究室の机上でなく、木立の木漏れ日を見て原子の在り様を悟ったように、それは、「言葉による思考」の果てに突然、しかし、すでにそこにあることが決められていたようにやってくる。
「言葉」は、これの前では、記号の羅列に過ぎぬが、私にとって「これの完結」は、言葉を使って他者に語ることでしかやってこない。たとえば私が職人であったなら、その仕事振りで「語る」のであろう。絵師ならば絵で、演奏家ならば、音楽で、蕎麦屋なら、一枚のざるで、大工なら家で語る。私の「職」は書くことなので、私は「言葉」でこれを語らねばならない。そうして、私は内の内から、語らずにはいられない。
あなたは、これを、受け取ったことがあるだろうか。きっと、わけもわからず、一事に「ツトメル」人ならば、それを知っているだろう。
そのために、私は、何もかもを見、聞き、嗅ぎ、舐め、触れ、考える。
そうして、ただ、ただ、受け取ったそれを、語る。

コメント (12)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 京都ご報告 | トップ | cold silent night »
最新の画像もっと見る

12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんにちは。 (Ken)
2005-12-15 16:52:30
確かに、言葉は記号の羅列に過ぎないのかもしれません。

しかし、言葉をもってしか、伝えることの出来ないものもあるのではないかと思います。

少なくとも、物を書く立場の人間は、自らの言葉に信頼を寄せることが必要とされるのではないでしょうか。
おもったままに言うならば (かなこ)
2005-12-15 17:24:45
それは、感動みたいなものとは違うんだろうか、と思いました。



わたしの場合ですが、先日、うさとさんの記事によって受けた感動を言葉にするのにたいそう時間がかかりました。

言葉で読んだものなのに、わたしの胸に届いたものは、言葉ではない何かでした。

だから、それをわたしの言葉で伝えるのは簡単ではなかったのではないでしょうか。



ああ、自分のことなのに、断言できません...。





初めてでもまるで長い間探していたかのような感覚 (きく)
2005-12-15 18:50:33
うさとさん、こんばんは。

「真」は「了解」によってはじめてその存在を顕にすることがらなのかもしれないですね。

「了解」は寸分の狂いのない手仕事によって私を包んでしまうお洋服のような感覚のするもの。

そして、たぶん、言葉を尽くそうとすればするほど、「真」はそれだけ無類の「真」たるものとなってゆくのではないかと。

そんな風に思うです。
うさとさんへ。 (さくら)
2005-12-15 19:41:56
こんばんは(^^)

最近、とても寒いですね。

今日は、我がサイトの閉鎖のご挨拶に参りました。

今まで短い間でしたが、うさとさんには優しくして頂いてとっても嬉しかったです。

ありがとうございました。

メールアドレスがわからなかったので、こちらに書き込みさせて頂いたことをお許しくださいませ。



これからもうさとさんのブログは、楽しみに拝見させて頂きます(^-^*)

時節柄、どうかご自愛くださいませ。
言葉 (BALTAN(バルタン))
2005-12-15 21:05:46
言葉で苦労し、言葉で泣き、言葉がつまる。

言葉はまさに「諸刃の剣」と考える。

とくに日本語は微妙なニュアンスで人間関係が狂ってくる。

とくに言葉の知識のない私など、耳で聞き、脳で解釈するまでに時間がかかる。

理解するまでに、さらに時間がかかる。

知識があったとしても、伝える言葉を履き違えると、それも恐ろしい。

自分流にしか理解できない言葉も、それを悟るのにも困難きわまりない。
羅列 (家主うさと)
2005-12-16 09:36:31
Kenさん。

コメントありがとうございます。「言葉は羅列である」これは厳然たる事実だと思います。その証拠に、外国の人にとっては何の意味も持たない記号なのです。しかし、人は「言葉」でしか考えることができない。「真」は「言葉」を超えたところにあるけれど、たどり着くには、言葉で考え、言葉で表現することしかない。「言葉への信頼」を私は持っているのかを考えてみました。私は信じていないかもしれないと思い当たりました。超能力者なら、言葉を超えたエナジーを送るのにと思うこともあります。しかし、私は言葉でしか伝えられない。だから、言葉は、とても大切で、注意深く、そうして、大胆に使って生きたい。



Kenさんは、こういう、言葉を超えるものを感じた経験ってありますか?私はそれを伝えるために書いているのかもしれません。
感動 (家主うさと)
2005-12-16 09:42:26
かなこさん。

「感動」と名づけてくださったんですね。

受け取るもののほとんどは、「感動」です。そうして、「感動」ではないものもあります。わかった瞬間に、「摂理」の一部が目の前に広げられた気持ちになるときがあります。このような循環の中に定められているんだとわかるときがあります。

そういうものは、その場で、その景色をうまく言葉にすることができません。しかし、せっかく受け取ったそれをどうしても書きたい。その時、言葉は本当に無力です。だから日をかけ、言葉に力を持たせていくように少しずつ、書いていくしかないんだろうなって思います。そうして、受け取ったものを忘れてしまわないように、「人」のレベルに変換していきたいと思います。かなこさんが感じてくださったものと同じだといいのですが。
ぴったり (家主うさと)
2005-12-16 09:46:15
きくさん。「了解」は、ぴったりなんです。

丁寧に体の隅々にあわせて作られたように、どこもかしこも、すべてがぴったりで、でも、窮屈ではない、絶対的なものなのです。

そうして、それがどうして「ぴったり」なのかを表現するのは言葉です。できれば、「ぴったり」な服を書くことにおいて、「ぴったり」なテーラーになりたい。
さくらさんへ (家主うさと)
2005-12-16 13:06:55
さくらさん。わざわざご挨拶に来てくださってありがとうございます。

いろいろ、困ったこともあったみたいですね。

私はいつでもここで待っています。

いつでも、いいえ、いつも、遊びに来てくださいね。お待ちしています。
諸刃 (家主うさと)
2005-12-16 13:10:11
バルタンさん。

言葉って、ただ難しければいいわけでも、奥が深そうならばいいわけでもないですよね。

時々、すごそうな言葉に怖気づいたりしますが、

本当は、誰にもわかる言葉で、誰にも「本当」を伝えられることが大事なんだと思います。

怖いけど、怖気ずにです。

私はいつも、「自分流」になってしまいます。お付き合いくださり、ほんとに感謝しています。バルタンさんの言葉は温かいです。

コメントを投稿