座間コミニティー

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◆この町エリコの再建を企てる者は、

2014年05月29日 16時51分25秒 | 聖書

主の前にのろわれよ。(ヨシュア六・二六)

エリコの町を再建する者がのろわれるならば、まして私たちの中に間違った教えを再建しようとする者は、どんなにのろわれることであろう。私たちの先祖の時代に、その巨大な城壁は、先祖たちの信仰の力、忍耐強い努力、彼らの福音のラッパの響きに、あえなく崩れ去った。しかし今、その古い土台の上に、のろわれるべき組織を再建しようとする者がいる。おお主よ。彼らの邪悪な企てをくつがえし、彼らが積み上げる石を崩してください。
異なる福音の精神を助長する傾向をもつ一切の誤謬を一掃することは、私たちに課せられた重大な任務でなければならない。この国で根絶に成功したならば、さらに、あらゆる手段を尽くして、世界中に急速に拡大しようとしているこの思想に反対すべきである。これは、熱心な密室の祈りと断固たる証しによって成し遂げることができる。その誤謬に傾いている人々に対して、私たちは裁判官のような大胆さをもって警告しなければならない。若い人々に福音の真理を教え、昔間違った教えを信じる人々がした暗い行為を彼らに語らなければならない。私たちは、光をさらにすみずみまでこの世に広めなければならない。
私たちはイエスのため、福音のために、最善を尽くしているだろうか。そうでなければ、怠慢のため私たちはつけいられる。私たちは聖書を広めるために何をしているのだろう。聖書は、間違った教えを信じる者にとって毒である。私たちは、良い健全な福音の著書を広く世に供給しているだろうか。ルターはかつて「悪魔は『鵞ペン』を憎む」と言った。もっともなことである。聖霊の祝福を受けた良い著者は、悪魔の王国に対して大損害を与えつつあるからである。もし、今夜この文を読んだ幾千の人々が、こののろうべきエリコの再建を妨げるために最善を尽くすならば、主の栄光は、人の子たちの間に急速に広がるであろう。
読者よ。あなたは今何をすることができるか。そして何をしたいと思うのか。

 

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「だれでもわたしについて来たいと思うなら、

2014年05月29日 16時50分37秒 | 聖書

自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)

信仰生活の中で、絶えず、古い価値観や、自分の思い、自の方法、肉の欲望が顔を出す。
これが主について行くことをさせないで、妨げとなる。
それゆえ、自分を捨てない限り、主について行けない。
古い人、古い価値観が、主に従って行こうとする、新しい性質とぶつかり、葛藤する。
自分の思い通りにしようとする自我や、様々なものに執着して、捨てる事の出来ない自分をまず認める事が大切だ。
幾ら頑張っても、自分では出来ない。
自分でしようとせずに、ありのままの、出来ない自分、世に執着し、世を愛している自分を、主に申し上げて行くのだ。
ありのままの姿を祈りで告げて行く時、主が働いて下さる。
今すぐ出来なくても、不思議に必ず出来るようにして下さる。
ついて行けるようにして下さる。
くびきをしっかり負う時、そのくびきは「わたしのくびき」だと言って下さる。
そして、そのくびきは負いやすく、荷は軽く、安らぎが来ると。
出来ないありのままをまず、主に告げよう。
-------------
どうしようもない自分だと気づいているはずだ。
それをそのまま主の御前に広げよう。
自分が重荷と思っているもの、捨てられないものを主が一緒になって下さる事を覚えて…。

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許さない 大阪市の違法対応/生活保護の申請・受給 調査団が区と交渉・・・

2014年05月29日 07時35分56秒 | セーフティーネット

 

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◆人  間  の  愛

2014年05月29日 07時34分02秒 | 聖書

貧しい者はその隣人にさえ憎まれるが、
富む者を愛する人は多い。     (箴言一四20)

前にも申し上げたことですが、現代ほど、「愛」ということばが氾濫している時代はないでしょう。しかし、現代ほど、愛のない時代はないのかもしれません。都会の片すみで、数かぎりない人が、自分が見忘れられ顧みられないことを寂しく感じています。けたたましく忙しい一日の活動の後にベッドに横たわる時、人々は、しみじみそれを感じるのです。
どこかが狂っています。どこかに間違いがあります。何がおかしいのでしょう。
家庭での愛情はひとまず置くとして、一歩外に出ると、人間の愛は、相手の利用価値に動かされています。相手に利用価値があれば愛し、そうでないと見向きもしないのです。富んでいる人のまわりには人が群がり、みな心のこもったようないいことを言います。貧しい人のまわりには、だれも集まりません。だれも、慰めも励ましも愛のことばもかけません。いや、それどころか、意地悪する人もあります。人が悩んでいたり苦しんでいるのを、ひそかに喜ぶ者すらいるのです。
家庭の中の愛だけは、無条件のほんとうの愛でしょうか。いつの間にか、ここでもやはり、自分で利用できるもの・自分の役に立つもの・自分の名誉や喜びになるものだけが愛され、そうでないものはポイと捨てられています。ですから、いま家庭の中で、夫婦の間・親子の間でさえ、争いの絶えない冷たい家庭が増えているのです。
ほんとうの愛とは、無条件で相手を受け入れ、相手の喜びを喜びとし、相手の悲しみを悲しみとする愛です。そんなほんものの愛は、神にあるのです。富める者も貧しい者も無条件で愛し、一人一人の最善を願うばかりか、それを備えてくださいます。そんな神の愛を知って、初めて私たちの愛もほんものに近づいていきます。

 

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◆あなたは……

2014年05月29日 07時32分44秒 | 聖書

悪を憎んだ。(詩篇四五・七)

「怒っても、罪を犯してはなりません。」もし人が罪を怒らないとすれば、その人の中に善があるとは思えない。真理を愛する者は、一切の偽りを憎むはずである。私たちの主イエスは、誘惑が襲ってきた時、どれほどそれを憎まれたことであろう。それは三度手を変えて襲ったが、主は「引き下がれ、サタン」とのことばをもって撃退された。主は他人の中にある罪を憎み、叱責のことばよりはさらに熱烈なあわれみの涙をもって、罪に対する憎しみを示された。
しかし、主の次のみことばほど、エリヤを思わせるような激しさをもつものはない。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。」主はこの上なく悪を憎まれ、悪に致命傷を与えるためにご自身の血を流し、悪が死ぬためにご自身が死に、悪をご自身の墓に葬るために葬られ、永久に悪を御足の下に踏みにじるためによみがえられた。キリストは福音の中におられ、福音はあらゆる悪に反対する。悪は美服をまとい、聖いことばをまねる。しかし、イエスの教えは、有名な宮潔めの縄のむちのように、悪を宮から追い出し、それが主のからだである教会の中に存在するのを黙認されない。それゆえ、イエスの支配下にある心の中では、キリストとサタンのなんと激しい戦いがあることだろう。
さらに、私たちの贖い主がさばき主としておいでになる時には、「のろわれた者ども。わたしから離れよ」との雷のようなみことばが――これは主のご生涯を通じての罪に関する教えの延長にすぎないものだが――罪に対する主の憎しみを表すことだろう。主は罪人に対して温かい愛をもたれるだけに、罪に対しては燃えるような憎しみをもたれるのである。主の義が完全であられるだけに、あらゆる種類の悪を残らず破壊される。
ああ、栄光ある正義の闘士、悪の破壊者よ。それゆえ神、すなわちあなたの神は、あなたの友にまさって喜びの油を多く注がれたのである。

 

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第1サムエル記25章9-13節

2014年05月29日 07時31分15秒 | 聖書

25:10 ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。 25:11 私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」



 ダビデは今、生産の手段を持ちませんから、自分の下にいる若者達に、収穫に与っている人からの感謝の分け物を祝いの時にもらいたいと願うことは当然のことでした。

また、神さまを敬っているのでしたら、当然困難にいる人を助けるのが、収穫の祝いの感謝をする人のあり方でした。

ところが、彼はダビデのことを知っているはずであるのに、その要求を快く思わないで、ダビデとは何者だ、見も知らない者のために自分の物を分けて与えることなど出来るかと言って、その要求を突き返しました。

若者は事の一部始終をダビデに伝えました。

ダビデはそれを聞いて激しく怒りました。

そして彼の元に改めて、侮辱のために報復する部下を送ろうとしたのです。


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詩篇29篇2節 前半(マタイによる福音書7章)

2014年05月29日 07時29分35秒 | 聖書

★  御名の栄光を、主に帰せよ。

■O:今日のコラム

皆さんの中で、自分の名前を持っていないという人はいるでしょうか?
そんな人はいないと思います。

私たちすべての人は名前が付けられています。私は、自分の名前が好きではありませんでした。
何と言ってもローマ字で書くと長い!「Shunsuke」です。そして、英語圏の人からまず正しく呼ばれない。大体「シュンスキー?」って呼ばれます。更に、小学生の頃の定番のアダ名は「俊すけべ~」でした。

そんなことで、私は自分の名前にとてもコンプレックスがありました。しかし、ある時「介」と言う意味を調べて、自分の名前が大好きになりました。そこには、「間に入ってなかだちをする。また、なかだちをする人。ひとり。一つ。また、とるに足りないものを数えるときのことば。」とありました。これは祭司の働きではないか!と思わされました。

自分の名前を長々と説明してしまってスミマセン。しかし、この事は、主の御顔を慕い求めた結果起こったことなのです。

私は主の御顔を慕い求めました。そして、私たちのお父さんの名前であるヤハウェのお名前を叫び求めました。そうしたら、嫌いだった自分の名前が好きになってきました。この次は、皆さんの名前を大好きになっていくと思います。

これが第一の戒めである「すべてを尽くして神を愛する」事、そして第二の戒め「自分を愛するように隣人を愛する」事なのかと思わされました。

ダビデも【主】のお名前を叫び続けました。この詩篇29篇は、11節しかありませんが、その中でダビデは【主】を18回も呼んでいます。

聖書に書かれている太文字の【主】はヤハウェのことです。ユダヤ人はこの名前を呼ぶことができません。神ご自身の名前であるヤハウェが偉大すぎて、口にすることすらできないのです。

だから、彼らはヘブル語で「ヤハウェ」という文字が出てくるとそれを「アドナイ」と自動的に読み替えて読みます。私たち日本人にわかりやすく言えば「今日」と書いて「こんにち」と読まず「きょう」と自動的に読んでいるような感覚なのではないかと思います。

また、どれほどユダヤ人が「ヤハウェ」のお名前を大切に思っているかというと、聖書を書き写す時、「ヤハウェ」のところだけを空欄にして書き写します。そして、後ほど全財産をはたくほどの高級なペンを買い、それで恐れつつ「ヤハウェ」という名前だけを丁寧に書いていきます。そして、すべて書き終わった後、そのペンで他の事を書かないようにボッキリ折ってしまうというほどです。

それほどのお名前を私たち異邦人は呼び求めることが許されています。そのことを通してユダヤ人に妬みを起こさせるためです。

「では、 尋ねましょう。 彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。 絶対にそんなことはありません。 かえって、 彼らの違反によって、 救いが異邦人に及んだのです。 それは、 イスラエルにねたみを起こさせるためです。」(ローマ人への手紙11章11節)

旧約聖書では、神様はご自分の名前を「私はあるもの」とか「アドナイ・ニシ」「アドナイ・イルエ」などというのを私たちに示してくださっています。新約の時代の私たちに与えられている神様の名前は「アドナイ・イエス」言い換えると「ヤハウェ・イエシュア」です。私たちは大胆にヤハウェ・イエシュアのお名前を叫び求めましょう。

今日の聖書の箇所で使われている「帰せよ」というのは「ヤーハヴ」ということばで、「与える、ささげる、帰する、起因する」と言う意味があります。

すべてのことはヤハウェから出ています。
私たちに必要なのは、与えられたものをその源であるヤハウェにお返しすることです。ヤハウェが欲しいと思っておられるのは、礼拝や賛美以上に、私たち自身です。

生きた供え物として、自分自身を主に捧げていきましょう。また、ヤハウェ・イエシュアに私たちの栄光をお返ししましょう。そして、ヤハウェ・イエシュアのお名前を叫び続けましょう。

■A:考えてみよう

私たちの口から出ているものは主に喜ばれるものですか? それとも、そうでないですか?

私たちの口は主をほめたたえるためにあります。主に喜ばれない口のことばを意志を持って捨て去りましょう。
そのかわりに、主への賛美、ヤハウェ・イエシュアのお名前を褒め称えることばをいつも口から出るように自分自身を訓練してきましょう。

「ですから、 私たちはキリストを通して、 賛美のいけにえ、 すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、 神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル人への手紙13章15節)

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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