座間コミニティー

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◆わたしはシャロンのばら……です。

2014年05月01日 15時49分00秒 | 聖書

(雅歌二・一協会訳)

花の中でも、ばらは最も美しいとされているが、たましいの花園におけるイエスの美しさは、地上の花園におけるばらの美しさよりも、はるかにすぐれている。万人の中にあって、主は最も麗しいものとして最高の地位を占めておられる。主は太陽であり、主以外のものはすべて星である。天も昼も主に比べれば暗い。主はその美しさにおいてすべてに抜きんでておられるからである。
「わたしはシャロンのばらです。」それはばらの中でも最上のものであり、最も珍しいものであった。イエスは単なる「ばら」ではなく、「シャロンのばら」であられた。これはあたかも、主がご自分の義を「金」と呼び、それにつけ加えて「オフィルの金」(金のうち最上のもの)と呼ばれたのと同様である。主は何の条件もなく麗しく、この上なく美しい。
その魅力には多様性がある。ばらは目に美しく、その香りは心地よくさわやかである。そのように、たましいの一つ一つの感覚は、それが味覚でも、触覚でも、あるいは聴覚、視覚、霊的臭覚でも、イエスにおいて満足を見いだす。主の愛を回想することさえも甘美である。シャロンのばらの一つ一つを取り、それを記憶の花びんにさせ。その一つ一つの花びらがいつまでも香りを放ち、家の中を芳香をもって満たすことに気づくであろう。キリストは、最もよく訓練された霊にも最高度の満足を与えられる。香料に対してどんなに高い趣味をもつ者でも、ばらにはすっかり満足する。そしてたましいが真の趣味の最高峰に達する時も、たましいはなおキリストに満足する。否、その時こそ、さらによくキリストの真価を認めることができる。天国にさえも、シャロンのばらにまさるものはない。
主の美を十分に表すのに、何をもってたとえればよいのであろう。人間のことば、地上の事物をもっては、主を語ることはできない。地上の最もすぐれた美を寄せ集めれば、その豊かな富をかすかに描き出すことができるであろう。尊いばらよ。とこしえに私の心の中で咲き、香りを放ってください。

 


第1サムエル記18章10-11節

2014年05月01日 07時07分13秒 | 聖書

18:10 その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。 18:11 サウルはその槍を投げつ けた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。


 ダビデは、サウルに対立するようなことは何一つしていません。

また女達が彼を褒め称えたのは、彼女たちがしたことであって、ダビデが要請したことでもありません。

従って、サウルに恨まれる理由は何もないはずです。

 ですから彼はいつもの通り王の所に行って、自分が求められている琴を奏で、サウル王の心を慰める務めをしました。

ところが、王の心の内は、彼に対するねたみと憎しみで満たされていました。

その結果、彼は家の中で狂うほどにわめいていました。

彼の手には槍があったので、その槍でダビデを殺害しようと思い、彼にそれを投げつけました。

それを避けることはできましたが、ダビデにとっては突然のことで、非常に驚いたことでしょう。

 サウルの凶暴性は、神からの悪しき霊によると語られています。

神に捨てられた故の、結果であったのです。


◆人 生 の 痛 み

2014年05月01日 07時05分27秒 | 聖書

訓戒を愛する人は知識を愛する。
叱責を憎む者はまぬけ者だ。     (箴言一二1)

叱られるのはだれでもいやです。でも、不思議に叱られたことはなつかしくなります。叱ってくれる人が多くいて、その叱責を心を開いて受け入れる人こそ、成長していく人です。反対に、叱られると反発したりすねて受け入れない人は、伸びる可能性がありません。
ところで、人生で一番すばらしい叱責・訓戒は、神によるものではないでしょうか。神からの叱責・訓戒を、素直に受け入れる人は、いよいよ神の心に近づきます。神の用意しておられる恵みの道を深く踏み分けていき、大きな祝福を見いだす人です。
病とその孤独は、神の叱責と訓戒の時です。病気になって長い間仕事の前線から退くなら、社会から置き去りにされたような孤独を覚えます。人生は、落ち目になった時にほんとうの人の情けが分かるといいます。自分の弱さを見つめる時にこそ、神の変わらない条件なしの愛が、じわりじわりと分かってくるのではないでしょうか。人から忘れられた時も、じっと見守ってついていてくださる神の愛にしみじみと気がつきます。
また、失敗も、神の訓戒の一つです。私たちは、失敗を恐れます。私は、終戦後、国電高田馬場の階段で、つまずいて倒れたことがありました。すると、上からどんどん人に踏みつけられて、下敷きになってしまいました。失敗したり挫折したりすれば、人々がかまわず土足で自分を踏みつけていくのではないか、それでだめになってしまうという恐れが、人生にあります。今、ちょうどそんな感じを持っている人もいるかもしれません。しかし、けっしてそうではないのです。神の愛は、あなたの失敗をよいものに変えてくださり、必ず立ちあがらせてくださいます。
人の叱責を憎む者はまぬけ者です。しかし、神からの叱責と訓戒を拒否する者は、もっと重大なまぬけ者ではありませんか。

 


◆人 生 の 痛 み

2014年05月01日 07時05分27秒 | 聖書

訓戒を愛する人は知識を愛する。
叱責を憎む者はまぬけ者だ。     (箴言一二1)

叱られるのはだれでもいやです。でも、不思議に叱られたことはなつかしくなります。叱ってくれる人が多くいて、その叱責を心を開いて受け入れる人こそ、成長していく人です。反対に、叱られると反発したりすねて受け入れない人は、伸びる可能性がありません。
ところで、人生で一番すばらしい叱責・訓戒は、神によるものではないでしょうか。神からの叱責・訓戒を、素直に受け入れる人は、いよいよ神の心に近づきます。神の用意しておられる恵みの道を深く踏み分けていき、大きな祝福を見いだす人です。
病とその孤独は、神の叱責と訓戒の時です。病気になって長い間仕事の前線から退くなら、社会から置き去りにされたような孤独を覚えます。人生は、落ち目になった時にほんとうの人の情けが分かるといいます。自分の弱さを見つめる時にこそ、神の変わらない条件なしの愛が、じわりじわりと分かってくるのではないでしょうか。人から忘れられた時も、じっと見守ってついていてくださる神の愛にしみじみと気がつきます。
また、失敗も、神の訓戒の一つです。私たちは、失敗を恐れます。私は、終戦後、国電高田馬場の階段で、つまずいて倒れたことがありました。すると、上からどんどん人に踏みつけられて、下敷きになってしまいました。失敗したり挫折したりすれば、人々がかまわず土足で自分を踏みつけていくのではないか、それでだめになってしまうという恐れが、人生にあります。今、ちょうどそんな感じを持っている人もいるかもしれません。しかし、けっしてそうではないのです。神の愛は、あなたの失敗をよいものに変えてくださり、必ず立ちあがらせてくださいます。
人の叱責を憎む者はまぬけ者です。しかし、神からの叱責と訓戒を拒否する者は、もっと重大なまぬけ者ではありませんか。