座間コミニティー

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◆この信仰にしっかりとどまるように勧め……。

2014年05月26日 15時52分01秒 | 聖書

(使徒一四・二二)

耐え忍ぶことは、聖徒の真の記章である。クリスチャン生活は神によって始められるが、それは生涯を通じて継続されるべきものである。クリスチャンはナポレオンのようでなければならない。彼はこう言った。「征服が私を今日のようにした。そして、征服が私の支えでなければならない。」主にある愛する兄弟よ。同じように、神の導きによる征服があなたを今日のようにした。そして、征服があなたの支えにならなければならない。戦いのラッパがその音をひそめるまで戦いぬく者こそ真の征服者であり、最後に栄冠を与えられる者である。
したがって、あらゆる霊の敵は攻撃の目標を私たちの忍耐に置く。あなたが一時的にクリスチャンになっても、やがてこの世の誘惑に負けて信仰の旅を断念し、虚栄の町から動こうとせず、この世とともに商売するなら、世はあなたがしばらくクリスチャンになることに反対はしない。肉はあなたをわなに陥れて、あなたが栄光に向かって前進するのを妨げようとする。
「巡礼はつらい。もうやめよう。どうしていつもこんな苦しい思いをしなければならないのか。この果てしなく続く戦いの最中に、ちょっとぐらい休みが欲しい。」サタンはあなたの忍耐を激しく攻撃し、あなたの忍耐にそのすべての矢を向ける。サタンはあなたの奉仕を妨げようとし、「おまえは役に立たない」とほのめかし、「休息が必要だ」と言う。そして、あなたを苦しみから逃れさせようとし、「神をのろって死になさい」とささやく。また、あなたの不動の信念を攻撃して言う。「そんなに一生懸命になっていったい何の益があるのか。他の人たちのように静かにして眠っているがよい。」あるいは、あなたの教義上の厳しさを攻撃して言う。「なぜ、教会の信条にこだわるのか。分別のある人はもっと自由に考えて、古くさいものを壊している。時代を考えなさい。」
信者よ。あなたの盾を取り、かぶとを引き締めよ。そして強く神に呼ばわれ。御霊によって最後まで耐え得るように、と。

 


「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。

2014年05月26日 15時50分56秒 | 聖書

『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから」(マタイ4:6)

御言葉によって、自分を正当化し神殿から飛び降りる…つまり、自分の願望を、主に叶えさせようと試みる罪だ。
御言葉により、自分の願望を正当化してしまう。
日常生活の中で、まず主の御心でなく、まず自分の願望があって、そこに都合の良い御言葉を持って来て、神に叶えさせようとしてしまう。
しかし、どんなに祈っても、御心でないなら決して成就しない。
「そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない」という事だ。
余りに願望が強い時、それに飲み込まれてしまい、自分で自分の願望に都合の良い御言葉を当てはめて、気づかない。
これから守られるには自分を明け渡す事だ。
右でも左でも御心のままにと自分の意志を委ねる時、間違いから守られ、正しく導かれる。」
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環境と適応していない御言葉サタンは狡猾に持ってくる。
自分の思いがあまりに強すぎると迷わされ、ついには神様から遠く離されてしまう。
よく祈って、結果を神様に委ねる態度で御言葉に臨もう。


◆まっすぐに見えても

2014年05月26日 07時00分29秒 | 聖書

人の目にはまっすぐに見える道がある。
その道の終わりは死の道である。   (箴言一四12)

まっすぐに見える道をまっすぐに行き死んでしまう。――こんなことがあるでしょうか。あるのです。数年前、ハイキング中の小学校五年生の子どもたちが標識を見落とし、曲がるべき所を曲がらず、まっすぐ行ってしまいました。先頭の子が一六五メートルの崖下に転落して、即死でした。何と気の毒なことでしょう。親や先生の苦しみは、想像に余ります。
ここをまっすぐ行けばいいんだ。みんなも行っているじゃないか。――そう考えていると、思わぬ死の穴が待っています。多くの大人は、金もうけに熱心です。事業・仕事・働きには一生懸命です。そうして、このようにまっしぐらに生きていればOK、とにかくこの道こそ、一直線にまっすぐ幸せにつながっていると考えています。そして、何のために生きるのか、人間はどこから来て、どこへ行くのかについては考えようとしません。人生のほんとうの目的・いのち・死などということに、あまり心を用いません。みんなが歩いていく広い道だからといって、また、それがまっすぐに見えるからといって、そこが安全ではないのです。
人生の道を歩く時は、道標に従って歩くべきです。そして、ほんとうに道を知っている人に聞くべきではないでしょうか。人生のほんとうのリーダーは、だれでしょうか。この人がいいだろうか。あの人についていけばとうろうろしているうちに、結局だれからも放り出されて独りぼっちになった話もよく聞きます。
だれが何と言おうとも、神に聞き従う生活には確かさがあります。どんなに弱く知識がない幼児でも、親といっしょにいて親に従って歩めば安全です。私たちを生んでくださった造り主である神は、ひとり子イエス・キリストをお与えになったほど、私たちを愛していてくださいます。この神に聞き従うことこそ、いのちの道なのです。

 


◆あなたの重荷を主にゆだねよ。

2014年05月26日 06時59分36秒 | 聖書

主は、あなたのことを心配してくださる。(詩篇五五・二二)

思い煩いや心配は、たとえ正当な理由があっても、度を過ごすと罪の性質をもつようになる。心配するなとの教えは、救い主が再三再四くり返し熱心に説かれたものであり、使徒たちによってもくり返された。この教えを無視する者は必ず過ちに陥る。なぜなら思い煩いの本質は、私たちが自分を神よりも賢いと思い、自分自身を神の位置に置いて、神が私たちにしようとされることを、自分のほうから神のためにしようとすることだからである。私たちのことを神がお忘れになることがあると想像して、神の代わりに考えようとし、あるいは、神が私たちの重荷を負うことができないとか、それを欲しておられないとか考えて、自分の重荷を自分で負おうとして苦しむのである。主の明らかな教えに対するこのような不従順、主の領分に割り込もうとする高慢はすべて罪である。
それだけでなく、思い煩いはしばしば罪の行為に発展する。素直にすべてを神の御手にゆだねられず、自分で重荷を負おうとする者は、自分の労を軽くするために悪い手段を取るように誘惑されがちである。この罪の結果、神を相談相手とすることに見切りをつけて、代わりに人間の知恵を求めるようになる。これは「泉」に行かず、「こわれた水ため」に行くことであり、昔のイスラエル人の陥った罪に陥ることである。
思い煩いは神のいつくしみを疑わせ、その結果、神に対する私たちの愛は冷却する。私たちは神に不信を抱くようになり、聖霊を悲しませ、祈りは妨げられる。一貫した行動がとれなくなり、生活は自己中心になる。
このように神に対する信頼の欠如は、私たちを神から離れさせ放浪させる。しかし、もし私たちが神の御約束を単純に信じてすべての重荷を御手にゆだね、神が私たちを顧みてくださるので、「何も思い煩わない」ならば、私たちは神の近くを歩むことができ、また多くの誘惑に対する力を与えられる。
「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」

 


第1サムエル記24章8-15節

2014年05月26日 06時58分10秒 | 聖書

24:11 「わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着のすそをよくご覧ください。私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めてください。私はあなたに罪を犯さなかったのに、あなたは私のいのちを取ろうとつけねらっておられます。」



 サウルが用を済ませて洞窟から出て歩き出した時、ダビデはサウル王に呼びかけました。

そしてサウルが振り向いた時、ダビデは地にひれ伏して王に語りました。

私はあなたが洞窟に入ってきた時、あなたを殺害することが出来ましたが、家来にも決してあなたを殺してはならないと命じました。

それは、あなたは主が油を注がれた方だからです。

これがその印ですと言って、サウロの服から切り取った布の端切れを見せました。

サウル王は、非常に驚いたことでしょう。

 ダビデは、自分がサウルに命を狙われる正当な理由がないこと、そして、サウルを敬っていることを告げました。

自分の思っていることを、明確に告げたのでした。



マルコによる福音書4章19節(詩篇26篇)

2014年05月26日 06時55分53秒 | 聖書

 ★  世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。 

■O:今日のコラム

御言葉が実を結ぶための良い地とは、私たちの良い心のことです。それは、種がまかれる場所だからです。

固い道端は、かたくなな心、(柔らかな心を求めましょう)
岩地は、継続し続けることに欠ける心(主を愛し続ける、御言葉に従い続けることを選びましょう)です。

そして、もう一つのレベルの高い状態は、いばらが存在する土地です。

いばらの地の特徴は、いろいろな欲望、そして富の惑わし、といったものが、いつまでも思いの中に入っている状態です。これらが御言葉を信じ行わせることを邪魔します。

たとえば、御言葉から、経済を手放して主に捧げるように、と語られたとします。しかし、当然いろいろと考えます。『このお金があったらあれが…』、『将来のためにはいくら貯金があっても足りないのに…』と。そしてどんどん捧げることを実行に移す力を失っていきます。

ここで求められている心を一言で言い表わすとしたら、『直ぐな心』であると思います。御言葉が心に蒔かれたら、その成長を邪魔するものを徹底的に自分の心から排除していく心。真っ直ぐに、心の動機に余計な要素を入れずに、主を愛するがゆえに御言葉に従うことを選ぶ心。つまり純真な花嫁の心です。

また、世の心づかいという言葉がわかりづらいように感じます。これは、ヘブル語で『メリーナ』という単語が使われていて、それは、心の悩み、心配という意味です。

私たちが、悩みに沈み、心配にふけることは、御言葉の実を結ぶことを妨げるのです。

いつも喜んで、感謝して、悩みや心配を主にゆだねる歩みをしましょう!
その方が幸せなことは間違いないのですから。

主は、実りの多い人生を用意しておられます!
それを味わわないのはもったいないことです。

■A:考えてみよう

心配や悩みを主に委ねて、平安の中にとどまる

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。