座間コミニティー

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◆ただ強く雄々しくあって……。

2014年05月11日 16時52分32秒 | 聖書

(ヨシュア一・七)

私たちの神は、そのしもべたちに対して優しい愛をもっておられる。それゆえに、神は彼らの心の中の状態に関心をもたれる。神は彼らが雄々しくあることを望んでおられる。ある人々は、信者が疑いや恐れに悩まされることを小事であると考えている。しかし神は、そのようにはお考えにならない。冒頭の聖句によって、主が私たちを恐れに落とすことを望んでおられないのは明らかである。主は、私たちが煩悶も疑惑もなく、臆病でもないことを望んでおられる。不信仰について私たちは軽く考えているかもしれないが、主はそのようには考えておられない。失望に陥る時、私たちは重い病にかかっているのであって、軽視すべきではなく、ただちに愛する医者を煩わさなければならない。主は、私たちの憂いに沈む顔を見るのを好まれない。
アハシュエロス王の法律では、だれも喪服を着て王の庭に入ることは許されなかった。これは、王の王なる方の法律ではない。喪に服していても、私たちは主の御前に行くことができるからである。しかし、主は私たちが陰気な心を捨てて、賛美の衣を着ることをお望みになる。喜ぶべき多くの理由があるからである。
信者は雄々しくなければならない。それは、彼が英雄的な態度で試練に耐えて、主の栄光を現すためである。もし彼が恐れに満たされ、小心であるならば、彼の神を辱しめる。そのうえ、それは悪例となる。この疑惑と落胆の病は、急速に主の群れに蔓延する。気を落とした一人の信徒は二十のたましいを悲しませる。
あなたの勇気が続かなければ、サタンは手に負えないものとなる。あなたの霊を、あなたの救い主である神にあって楽しませよ。そうすれば、主の喜びがあなたの力となり、地獄の悪魔もあなたに立ち向かうことはできない。しかし、小心な者は旗を投げ捨てる。
さらに、快活な人にとっては労苦が軽く感じられ、成功は快活な人にもたらされる。心の底から神を信じ、神にあって喜びながら労苦する人には、成功が保証されている。希望をもって蒔く者は、喜びをもって刈り取る。だから愛する友よ。「強く、雄々しくあれ。」

 


「あなたの一生を良いもので満たされる。

2014年05月11日 16時51分41秒 | 聖書

あなたの若さは、わしのように、新しくなる」(詩篇103:5)

ある男性は学生の時に、両親が離婚した。
目の前で親が大声で罵り合い、暴力と悲鳴、争い、物が壊れ、悲惨極まりない状態で別れた。
自分の心も壊れた。
何も感じなくなってしまった。
何をしても何を見ても無感動、心が動かない。
虚無感で身体ごとおおわれ、息はしていても死んでいる生ける屍だった。
富も名誉も何もいらない、ただ一つ、生きている実感、生きる喜びが欲しかった。
神に立ち返った時、心に暖かい灯がともった。
暖かさに包まれ、ただ一つ欲しかったもの、あの生きる喜びが湧き上がったのだ。
今、牧師だ。「生きる喜び」は、神しか与える事の出来ないものだ。
その喜びが与えられている事にまず感謝しよう。
日常の些細な一つ一つの恵みを数えよう。
目の前の恵みを感謝しよう。
恵みを見る時、神を見ている。
感謝する時、神に焦点が合っている。
今日も恵みは溢れている。
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生きる喜びは神様から来る。
肉の目で見るなら不平、つぶやきで一杯にしか見えない。
世界が自分に冷たく思えるなら、霊の目でもう一度良くみて見よう。
感謝できない自分が見えてくる。


◆偽りのくちびる

2014年05月11日 07時39分51秒 | 聖書

偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。
真実を行なう者は主に喜ばれる。  (箴言一二22)

かつて、「私はけっしてうそを申しません」という大うそをついた総理大臣がいました。私たちの社会は、上は首相から下は幼い子どもまで、うそでいっぱいです。大人同士では「うそも方便」といいますが、子どもには「うそつきはどろぼうの始まり」といましめます。いったい、うそとは何でしょう。事実でないことがうそ、ほんとうでないことが偽りであるわけです。そして、「心と違う口のことば」がうそではないでしょうか。
イエス・キリストのたとえ話の中で、お父さんが二人の息子に言います。「きょうはぶどう園へ行って働いてくれ。」兄息子は調子よく、「はい」と答えましたが、実際は行きませんでした。弟息子のほうは、「ぼくいやだ」と言いましたが、後で悔い改めて行きました。兄息子は口先ではいいことを言っても、心の中では、初めから畑に行く気がなかったのです。調子のいいなめらかなことば。――しかし、これがうそです。
なぜ、人はうそを言うのでしょうか。
第一は、自分をよく見せようという見えのため、第二は、ほんとうのことを言うと都合が悪いから自分の立場を守ろうとするたくらみのため、第三は、自分の罪や悪がばれて恥をかかないための保身術です。
うその特徴は、二つあります。
第一は、一つうそを言うと、第二、第三のうそで塗り固めなければならないことです。第二は、いつかは必ずばれることです。一つ残らず白日のもとにさらされ、神のさばきを受けます。めっきははげます。神は偽りのくちびるを忌みきらわれます。
真実な心を持ち、真実を行う人は、主に喜ばれます。聖書は、「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」(ローマ一〇10)と申します。心と口を一つにし罪を悔い改めて神の胸に飛びこむことから、真実な者の歩みが始まるのです。

 


◆見よ。

2014年05月11日 07時39分00秒 | 聖書

わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ二八・二〇)

永遠に変わることなく、常に共におられる方があるのは幸いである。人生の大海の波間に、ただ一つ、揺るがない岩があるのは幸いである。ああ、私のたましいよ。おまえの愛情を、虫とさびで傷物になる宝の上に置かず、おまえの心をおまえに永久に忠実であられる方の上に置け。おまえの家を、偽り多いこの世の崩れやすい砂の上に建てるな。おまえの望みを、大雨や大洪水が襲っても動かないこの岩の上に置け。
私のたましいよ。おまえに命じる。その宝を唯一の安全な宝庫に収め、おまえの宝石を決して失われることのない場所に蓄えよ。おまえのすべてをキリストの中に置け。すべての愛を主の人格の上に、すべての希望を主のいさおしの中に、すべての信頼を主の贖いの血に、また、すべての喜びを主のご臨在の中に置け。そうすればおまえは損失をあざ笑い、破壊を軽蔑することができる。
この世の花園にあるすべての花は、みないつかはしぼみ、黒い冷ややかな土のほかは何も残らない日が来ることを記憶せよ。まもなく、黒い死がおまえのともしびを吹き消す。ああ、ともしびが消えた後に日光のあることは、なんとすばらしいことか。やがて、暗い洪水が、おまえと、おまえのもつ一切のものとを隔てる。それゆえ、決しておまえのもとを離れられない方に、おまえの心をささげよ。黒く波立つ死の川を共によぎり、安全に天国の岸辺に上陸させ、そこで永遠におまえをみそば近くに置かれる方に信頼せよ。
行け。悩みのために悲しむ子よ。肉親よりも親しい友にあなたの秘密を告げよ。決してあなたから取り去られることなく、また離れず、さらにあなたを離れさせない方に、あらゆる憂慮をゆだねよ。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」だれが私を捨てようと、私のたましいよ、このお約束で十分ではないか。

 


第1サムエル記20章24-34節

2014年05月11日 07時37分26秒 | 聖書

20:30 サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「このばいたの息子め。おまえがエッサイの子にえこひいきをして、自分をはずかしめ、自分の母親の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。
20:31 エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も危うくなるのだ。今、人をやって、あれを私のところに連れて来い。あれは殺さなければならない。」



 サウル王は、食事の席に2日にわたって来ないダビデのことをいぶかっていました。

そうした父サウル王に対して、ヨナタンは、ダビデがベツレヘムに行ったと語りました。

ところが、そのことが偽りであると気づいていたサウルはヨナタンに対して、なぜお前は彼のことをかばうのかと問い詰めました。

ダビデはお前の地位を狙う者なのだと伝えたのです。

しかしヨナタンは、なぜ罪もないダビデを殺害しようとするのですかと、尋ねたのです。

父は息子のことを思っていました。

しかしヨナタンは、ダビデのことを思いながらも、さらに、正しいことを求められる神の御心に、その思いと心とを置いていたのです。



第1サムエル記20章18-23節

2014年05月11日 07時36分31秒 | 聖書

20:21 「いいですか。私が子どもをやって、『行って矢を見つけて来い』と言い、もし私がその子どもに、『それ、矢はおまえのこちら側にある。それを取って来い』と言ったら、そのとき、あなたは出て来てください。主は生きておられます。あなたは安全で、何事もありませんから。」



 ヨナタンは、ダビデと結んだ契約の実行を果たすことを告げました。

その時は、新月祭になってからの次の日、ダビデの不在を聞いて不愉快になるサウルが、彼の心の思いを表した時に、それを知って、そのことを隠さず知らせますと言ったのです。

それをダビデに告げる方法は、当日、ヨナタンが3本の弓を放って、子供に見つけさせるというのです。

その時にヨナタンが、その矢は子供のあちら側にあると叫べば、王はダビデの命を狙っていない。

しかしヨナタンが子供に、矢はお前のあちら側だと叫んだら、ダビデは逃げていきなさい。

王がダビデの命を狙っていることが判明したからだと、と告げたのです。

ヨナタンは、神の前に真実を尽くすということが、契約を守ることだと、ここで示したのです。


民数記35章25節(同36章)

2014年05月11日 07時34分45秒 | 聖書

★  会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。

■O:今日のコラム

今年の始めに、祈っていると、いざ戦いの勇士が軍馬に乗って走り出した時に、足や体に傷を負っている馬がバタバタと倒れ、また、別の馬は、横の馬を気にしながら走るため、なかなか早く走れない…というような映像が頭の中に映りました。

祈り続ける中で、それが、終わりの時代に最前線に立ち、とりなし礼拝する主の軍勢、すなわちダビデの幕屋を担う者たちであるという事が分かりました。

ダビデの幕屋は、勇士のように勇敢に戦い、激しく責め取っていくという側面の他に、傷ついた心が癒され、過去の失敗から回復する、というとても大切な側面があることを忘れてはなりません。

私たちは、幕屋の中にまず保護され、そこで癒されていく必要があるのです。

「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。」(詩篇27章5節)

「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。」(詩篇121章3節)

祈りによって勝ち取る大勝利や、目に見える成功を喜ぶと同時に、心の傷やとらわれが癒され回復していくという、1人の魂の内に起こる小さな変化も共に喜び祝い合いましょう。

なぜなら、私たちはキリストの体だからです。小さな器官であったとしても、体の傷ついてどうしようもなかった部分が癒される時、体全体が自由になり、前よりもスムーズに進んで行くのを感じます。

そして私たちは気づくのです。1人の回復が皆の祝福であり、1人の癒しが神の家族全体の勝利であるということを。

この国の救いは、個人プレーでは成し遂げられません。キリストの体である教会全体が愛において成長し、共に一致して前進して行く時に、それは、強くて巨大な弾丸となって、サタンを打ち倒し、神の御国をもたらす力となるのです。

神様は完璧に出来る人や、強い人を必要としてはいません。

神様は弱い部分をことさらに尊び、弱い器を選び、弱い者を用いられるお方です。

神様は、「弱い者に『私は勇士だ。』と言わせよ。」と言われるお方であり、「最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。」と言われるお方です。

神様の戦略は、貧しい者の足、弱い者の歩みで、偶像を踏みつけることです。(イザヤ書26章6節)

聖書の中で活躍した人物はみな、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となった者たちです。

ダビデがサウル王から逃れ、アドラムのほら穴に避難していた時、ダビデの元に集まったのは、400人の全員何かしら大きな問題を抱えた人たちでした。

神様はこの者たちを素晴らしい勇士へと造り変えられたのです。

今日の本題である「のがれの町」―

これは、故意ではなく、あやまって石を落として人を殺しまった人が、復讐する者の手から守られ、かくまわれる場所でした。

このような失敗者がのがれの町に入り、その中にとどまることが許されたのは、大祭司の存在のゆえです。

彼は正しく審判された後に、やがて大祭司の死ぬ時にその罪が贖われ、のがれの町から出て行くことが出来ました。

6つののがれの町(15節)、大祭司の死… これらは、やがて来る7つ目ののがれの町、大祭司である神の子イエスがいけにえとなって捧げられた十字架の元であることが分かります。

今日、私たちは、この場所で自分の罪を告白して悔い改めるならば、完全に赦されるのです。

過去の失敗は十字架で流された主イエスの血潮で赦され、帳消しにされました。過去のどんな痛みも傷も、イエス様の打たれた傷ゆえに癒されるのです。

のがれの場所は、隠れ場であると同時に心の動機をとことんまで探られます。

そんなつもりはなかったのに…。
一生懸命やっていたのに…。
自分が望んでいたことではないのに…。
でももしかしたら、自分に非があったのかもしれないー。

このように、主のみ前に行くとき、聖霊様は私たちの心の深くまで探られます。

その過程は、本当に苦しいものです。自分の内側を見ることは、穴があったら入りたいほど、恥ずかしさがやってきます。

しかし、私たちが罪や弱さを認め、主に告白し、赦しを受け取るなら、そこから立ち上がって出て行くことが出来るのです。

この朝、まことのがれの町に行きましょう。

■A:考えてみよう

かつてののがれの町は、一日かけて行くような長い距離でした。しかし、新しいのがれの町は、どこか遠い場所ではなく、すぐ目の前にあります。

「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」(ローマ人への手紙10章8節)

この場所でただ静まり、主の御顔を仰ぎ見ましょう。

■P:祈り

主よ、私ののがれの町は十字架の元です。
この場所で、私は罪を悔い改め、赦しと平安を得ることを求めます。
十字架の血潮で絶えず私をお守り下さい。
私の心を探り、調べ、傷ついたところをお癒し下さい。

仕事があったり、また、子供の世話、親の介護で礼拝に行けなかったり祈りに行くことが出来ない時、神様を遠くに感じてしまいますが、物理的な距離は関係なく、神様との霊的な距離が重要であることを覚えます。のがれの町はいつもすぐ近くにあるということを思い起こさせて下さい。

また、主イエスの弟子である私も祭司です。
師なる大祭司イエスがされたように、いつも自分自身を捧げ、傷ついた魂、問題を抱えた者を愛し、受け入れ、彼らがミニスターへと変えられて行くよう、励まし、祈り、彼らに寄り添う者とさせて下さい。

弱い者が勇士へと変えられ、傷ついた者が癒され、主の軍勢とされるのがれの町が、日本全国に打ち立てられて行きますように。
海外まで行かずとも、他の教会に行かずとも、キリストの体であるそれぞれの所属教会の中にのがれの町が出来る、その願いと情熱と聖霊の油注ぎをイエスの御名で宣言します。

かつて6つもののがれの町があったように、礼拝、祈りの家、セルグループ、ミニストリー、フェローシップ、学び会など、全て人の集まる場所が、楽しいだけの集まりの場ではなく、人々が変えられ、癒され、主の勇士となる、のがれの町となっていきますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。