目黒と白金を分ける首都高2号線とその下の道。ここを五反田の方に下り掛けたところ白金サイドにこちらはあります。
tokyoboyにとってインドネシアは、1986年のルピア切り下げ、1988年の第2次金融自由化に伴う金融機関急増とそれに対する対応策、に仕事面で関わった、というのが出会いでした。
但し、当時は海外赴任中だったので、こちらにビザを取りにきたことはありません。その後、日本人はビザ無しでOKになりましたので(まあ、変更直後はかなりの数の日本人がジャカルタ・スカルノハッタ空港で同国職員に脅かされて袖の下を使わざるを得なかった、なんて聞きましたが…)、無縁のままです。
て、いうか、tokyoboyもその直後ジャカルタ、デンパサールに到着時、ビザ無しで入国できないから特別ビザ発行料を出せ、通関時にビザ無しだと税金が掛かる、と言われたことが実際有ります。へえ、じゃ上司を呼んで、と答えると、苦虫を噛んだような悔しそうな顔をして”OK、もう行っていいぞ"とのご宣託。それで、同様に留め置かれていた他の日本人達も一斉に解放されましたから、彼らの収入機会を奪っちゃいましたね。申し訳ないことを何回かしました^^
そうした頃から、我らが日本人女性はバリで伸び伸び楽しんでいらっしゃいました。何時も外人と行動していたtokyoboyを日本人とは思わず、コーヒーショップとかで昨晩の”戦果”を嬉しそうに語り合う中年女性達、は毎朝定番の景色でした。何せ、ヌサドゥアに国営ホテルが一軒だけだった頃のお話です。
この間も日本人女性が”遭難”、亡くなられていましたが、今に始まる訳でなく、80年代後半からバリのビーチ・ボーイはお手軽なアバンチュールのお相手であり続けているんです。