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【天主の十戒】第二戒 冒涜について 「あなたは地獄からの人ですか?」

2020年10月08日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、天主の十戒の「第二戒」で、「冒涜」について説明します。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「【天主の十戒】第二戒_冒涜」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【動画全文】

第二:汝、天主の聖名をみだりに呼ぶなかれ。

今日は、福音で「冒涜のことばを吐いた」という表現がでてきます。そこで「冒涜」という罪について見てみましょう。

天主は愛です。私たちを永遠の昔から愛し、私たちを無から創造し、今、有らしめ、生かし、祝福してくださっている方です。天主は、全宇宙を私たち人間が幸せであるために創られました。輝くダイアモンドも黄金も、森林の木々も花々も昆虫たちも、海を泳ぐ魚の大群も、空を飛ぶ鳥たちも、大地を駆け巡る動物たちも、すべて人間の幸せのために創造しました。

全宇宙に輝く星々と高い山脈と深い深海は、私たちが天主を賛美する「よすが」です。野に咲く花々の無言の賛美に合わせて、小枝に止まってきれいにさえずる小鳥たちに合わせて、雄たけびを上げる野生の動物たちに合わせて、これらを楽器であるかのように、私たちは天主を賛美しましょう。

天主は私たちを愛し続けています。私たちは知性でこの愛を認め、当然のこととして、愛の天主を愛し返さねばなりません。天主を礼拝し、賛美し、感謝しなければなりません。この愛の天主に対して犯される悲しい罪が冒涜です。冒涜は、ガスパリ枢機卿の公教要理によると天主に対する侮辱の言葉(locutio contumeliosa in Deum)とあります。

【冒涜と涜聖の違い】

ところで冒涜と似たものに涜聖があります。この違いをまず見てみましょう。

天主に関わる聖なるものに対して、主に行動をもって非礼を犯すことを涜聖(とくせい)と言います。これに対して、天主の聖名に対して、主に言葉をもって暴言や侮辱を言うことを冒涜(ぼうとく)と言います。

【涜聖】

涜聖は第一戒に含まれる罪です。聖なるものとは、教会から天主の礼拝を委託された聖職者(人間)や、聖なる場所、聖なる事物があります。

天主から聖別された人間とは、叙階を受けた聖職者や誓願を立てた修道者で、このような人々に、暴力を行ったり、兵役など聖職の身分にふさわしくないことをさせたり、貞潔に反する罪を犯したりすることが涜聖です。教会法によれば、教皇様に対する暴力には、教皇のみに赦されることができる破門の刑罰が科されています。

聖なる場所とは、言葉の狭い厳密な意味では、天主の礼拝や信徒の埋葬のために、教会当局によって聖別されるか、あるいは公式に祝別された場所です。

聖所での、殺人や不正な多量の流血、不敬な迷信的行為などは、聖所「侵犯」の涜聖です。(これ以外の罪は聖所侵犯とはされません。)

聖所での、裁判、販売、演劇、世俗的議事、邪淫などは、聖所「世俗化」の涜聖です。

広義の意味での聖所は、玄関や香部屋などを含めた場所で、教会がそうと認定したものです。広義の意味での聖所は司祭館や修道院などで、世俗権力からの自由性をもつとされます。これらの破壊、掠奪(りゃくだつ)、放火、窃盗などで聖所を毀損・損傷することも、聖所の自由性を侵す涜聖です。

聖なる事物とは、秘蹟(たとえば御聖体)や礼拝のために指定されている聖なる事物(たとえばカリスや教会の財産)です。教会法によれば、御聖体を不敬に取り扱う涜聖には、教皇のみに赦されることができる破門の刑罰が科されています。

【冒涜】

私たちを愛する全能の天主の聖名は、どれほど聖なるものであり、どれほど愛すべきでしょうか!私たちが当然払うべき愛や尊敬を払わずに、あるいは虚しく、天主の聖名を使うことは、どれほど天主の聖心を悲しませてしまうことでしょうか!

特に、天主に対する侮辱的な罵詈(ばり)暴言を冒涜と言います。心の中で思うだけの冒涜もあれば、心の中の思いが口をついて外に出てくる完全な冒涜があり、完全な冒涜は信仰告白の義務に反する罪です。

暴言を吐くだけではなく、天主の善性(つまり天主の能力や聖徳や憐み)に反することを、天主に帰するとき、これも冒涜です。

或いは、天主だけに帰すことができることを、人間や或いは偶像に帰するときも、冒涜と言います。

天主のみならず、天主と密接につながっている聖人や教会や秘蹟に対して侮辱したり皮肉ったり貶めたりすることも、間接的に天主に対する冒涜です。

天主の聖名を腹立ちまぎれに使ったり、単にすばらしいことを「神だ」と表現することも、私たちは避けなければなりません。

私たちの霊的生命の第一の原理は天主の愛です。この愛に反対することは大罪を構成します。冒涜によって天主の善性・善さを侮辱し、愛徳に反するので、冒涜は大罪です。

しかも、聖トマス・アクィナスによれば、冒涜は、信仰告白に反するので不信仰という最悪の罪であり、しかも、天主への憎しみが不信仰に加わるので、更なる邪悪さが付け加わっています。

天国では聖人たちが永遠に天主の憐れみ深き愛を賛美し感謝し続けるように、地獄に堕ちた者たちは永遠に天主を憎しみ冒涜することでしょう。何故なら、彼らは罪を愛してそのために永遠の罰を受けていますが、その罰を憎み、罰を受けていることを憎み、罰を与える天主の正義を憎むからです。

或るフランス人司祭は、冒涜の言葉を吐く人に出会ったとき「こんにちは、あなたは地獄からの方ですか?」と尋ねたそうです。この人はその意味が分からなかったので何のことか尋ねると、「フランスではフランス語を話します。もし、ドイツ語が話されているのを耳にすると、その人はドイツからの人だと思います。イタリア語を話す人を見るとイタリアの方だと思います。ですから、冒涜の言葉を聞くと、その人は地獄から来たのだと思うのです。何故なら悪魔の言葉を話していますから。」

冒涜がどれほど天主の聖心を傷つけるかは、聖母が私たちにフランスのラ・サレットというところで教えてくれました。

1846年9月19日、ラ・サレットの山上で、太陽よりもまぶしく輝く美しい光の中に、もっと輝かしい聖母マリアさまが二人の子供たちに御出現になりました。聖母は、頭を両手にうずめて、腰を下ろされていたのですが、立ち上がり、涙を流しながら子供たちにこういいました。

「もし、私の民が従おうとしないなら、私は御子の手がなさるがままにせざるを得なくなります。その手はもう私が支えることができないほど、ずっしりと重いのです。」

「私はあなた方のためにずっと苦しんでいます!御子があなた方をお見捨てにならないようにと私が望む限り、私は絶えずそう祈らなくてはなりません。ところがあなた方と言えば、そんな事におかまいなしです。あなた方がこれから祈っても、行動しても、私があなた方のために負った苦しみを決して償えないでしょう。」

「私はあなた方に、六日間の労働の日を与え、七日目は私に取って置いたのに、誰も私にそれを承知したがりません。それが御子の腕をこんなにも重くしているのです。荷馬車を御する人々は、御子の御名を途中に置かなければ話すことができません〔注:天主の御名をみだりに用いること〕。これが御子の腕をこんなにも重くしている二つの事なのです。」

1930年5月29日の夜、私たちの主はシスター・ルチアに初土の信心を何故五回するかの理由について、聖母の汚れなき御心に対して犯される5つの冒涜と涜聖があるからだと説明しました。

1:無原罪の御宿りを否定する冒涜

2:聖母が終生童貞であることを否定する冒涜

3:聖母が天主の御母であることを否定し、また人々の母であることを否定する冒涜

4:子供たちの心に汚れなき聖母に対する無関心と軽蔑あるいは憎しみを植え付けようとする冒涜

5:聖母の御影や御像に対して聖母を直接侮辱しようとする涜聖

愛する兄弟姉妹の皆様、聖母に祈りましょう。私たちが主の聖名をいつも正しく用いることができますように!

天主は賛美せられさせ給え!

天主の聖名は賛美せられさせ給え!

まことの天主、まことの人なるイエズス・キリストは賛美せられさせ給え!

イエズスの聖名は賛美せられさせ給え!

イエズスの至聖なる聖心は賛美せられさせ給え!

いと尊き聖体の秘蹟にましましたもうイエズスは賛美せられさせ給え!

天主の御母聖マリアは、賛美せられさせ給え!

聖マリアの現在の汚れなき御宿りは、賛美せられさせ給え!

聖マリアの栄えある被昇天は、賛美せられさせ給え!

童貞にして母なる聖マリアの御名は、賛美せられさせ給え!

聖マリアの浄配なる聖ヨゼフは、賛美せられさせ給え!

全ての天使と聖人とにおいて天主は、賛美せられさせ給え!


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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