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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十一章 一つの石は千の波を起こします

2011年12月28日 | カトリックとは
第五十一章 一つの石は千の波を起こします

1950年代には、私の周りに住む多くの将来の殉教者がいました。その中で、張希斌神父様が18年の刑を言い渡され、最も苦しみました。張神父様の分野は哲学や論理であり、囚人の間には少なからずの学者と教授がいました。彼らは張神父様を尊敬したばかりではなく、神父様の良い模範のために改宗を望んで洗礼を受けました。張神父様は、囚人の牢屋で彼らに洗礼を授けたと私に語りました。

 一九七一年、刑務官はあらゆる宗教に反対を示すために、特別な洗脳学習を組織しました。この学習は、主に龔司教様と張神父様を狙っていました。龔司教様は国際的な名声を博していましたので、彼らは「毛沢東思想とマルクス・レーニン主義」について何か発言するように強制はしませんでした。彼らは張神父様に砲火を集中しました。共産党の刑務官は、いわゆる唯物論やマルクス・レーニン主義の専門家を集めましたが、実際には左翼の政治について何も知りませんでした。確かに、彼らは中国共産党によって支配されていました。彼らは常に偽りを述べる特別な権利を持っており、彼らは自分たちが好む話を作り出しましたが、最も邪悪な行為は、幹部が何人かの犯罪者に彼らと働くように説得したことでした。張神父様が私たちのカトリックの宗教の真実を話した時、そのうちの一人が警告無しに彼のところに来て、神父様の心臓を打とうと木の板を取り出しました。何度も何度も、神父様がほとんど気絶するまで全力で激しく打ちました。これは十数回繰り返されました。そして、このような洗脳学習は9ヶ月間続きました。最後に、最も顕著な出来事がやって来ました。ある共産党の管理人は、龔司教様に詰問しました。「おまえは、自分のカトリックの教えについてどう思うか?」司教様は立ち上がり、「全く変わりません」と言いました。これを聞いて、管理人は「全てのカトリック教徒は立ち上がれ!」とヒステリックに叫びました。張神父様は最初に立ち上りました。続いて、何人かのカトリック教徒が立ち上がりました。その後、洗礼を待っていたしていた一部の人が立ち上がり、その後に張神父様を尊敬していた人もそうしました。それから、より多くの人が立ち上がりました。看守は狼狽し、どう扱えばいいか分かりませんでした。彼は大声で叫び続けるだけでした。「おまえたちの名何人かは、確実に処刑される。おまえは厳罰を受けるだろう。待っていろ!」この九ヶ月の結果はどうでしたでしょう?神父様は微笑んで言いました。「より多くの人々が洗礼を受けました。牢獄であっても、本当にすばらしかった。私たちは自由を失いましたが、まだ私たちには水がありました。人々はまだ自分の自由意志を持っており、何も彼らが真実を受け入れることを止められませんでした。実際、共産主義者が私たちの教会を攻撃すればするほど、より多くの人が改宗しました」

彼は自信に満ち溢れた司祭でした。彼の目は全生涯、聖ペトロのようにイエズス様に自分の目を注ぎ、海の上を歩き続けました。囚人の牢屋の中での宣教の仕事は、信じられないことでした。それぞれの重大な尋問の後、常に洗礼を受けることを望む人が数人はいました。神父様が言ったように、共産党員は私たちが宣教の仕事をするために助けたのです。しかも全ての看守が悪かったのではありません。何人かは密かに、牢獄の外に出るように神父様に依頼し、私たちの勇敢な司祭は、それを彼らに基本的で重要な真実について教育する機会として受け取りました。実際、神父様が、サウロがパウロになったと語ったようなケースがいくつかありました。

私は一九八三年に労働改造所から解放され、一九八五年に訪問のために上海に行きました。私は家に帰ると直ぐに私の友人が、張神父様が重病で上海の中央病院に滞在していたことを告げました。彼は一九五〇年以来深刻な心臓病を患っており、コラミンの注射による治療を受けていました。彼は常に自分の必要に応じて、自分と共にそれを持ち運んでいました。殆ど死んでしまう程ひどく胸部を殴られた後、彼の二尖弁と三尖弁が深刻な損傷を受けてしまい、彼の心臓の鼓動は非常に不規則でした。心拍数は時には一分で二百回以上にたちし、医者は彼の家族に彼の死に備えるように言い聞かせましたが、私が彼の病棟に足を踏み入れたある日、彼は元気に満ち溢れていました。彼は私の手を取り、言いました、「あなたは、朱樹徳神父が私のことで第一級の奇蹟を起こしたことを知っていますか?」私は嬉しさのあまり、飛び跳ねました。その後、彼は私にいくつかケーキや飴をくれて、言いました。「あわてないで。まず、あなたは何か食べなくては。そうしたら、私の話をしよう」私は答えました。「神父様、あなたはいつも私を子供のように扱います。私は五十歳を過ぎています。私はあなたに何が起こったか聞くのを待ちきれません」神父様は非常に直接的で率直でした。彼は私に詳しく自分の話をしました。「一週間前、この病院の心臓の専門家が他の病院の何人かの専門家に、私を繰り返し調査しに来るように招きました。彼らは全員同じ結果を得ました。全ての医者は私をあきらめていました。彼らが私の薬物療法を止めた時、私は自分の枕の下に朱樹徳神父の聖遺物を置いて、彼に祈りました。「もし、天主様が私に天主様のために再び働くことをお望みになるのでしたら、私に奇跡を起こして下さい」次の日、医者が私の部屋に来た時、驚いたことに私の心拍数はもう正常になっていました。彼らは私を調べるために、同じ医療機器を用いましたが、彼らは私の心臓に何の問題も見つけられませんでした。彼らはこの結果を進んで受け入れようとはせず、おそらく機器が誤動作していたと思い、病院の主任医師が他の病院から心電図の機器を借りるように依頼して調査しましたが、やはり結果は同じでした。医者が驚いたというのは、控えめな表現でしょう。彼らは、医学用語で私に何が起こったのか説明することが出来ないと語りました。その後、多くの看護士が私のところに来て、彼らのために祈るように私に頼みました。彼らは言いました。「神父様、あなたの天主様があなたを救われたことをはっきりと知っている;私たちのために祈ってください」最終的に、何人かの看護士は洗礼を受けました。

一九八九年に私が米国へ出発する前、私は彼に別れを告げに行きました。私の感情は、はるかに自分の表現能力を超えていました。確かに、私は出来るだけ早く中国を離れたかったのですが、まだ非常に多くの司祭、特に私の貴重な霊的指導者である張神父様がそこに留っていました。私は再び彼に会うか、話をする機会がないことを知っていました。彼と握手をしながら別れを告げるのに、どうして自分の涙を抑えることが出来たでしょう?彼の最後の言葉は、しっかりして力強いものでした。「あなたを待っている多くの十字架があるでしょう。私たちの仲間である信者、司祭、司教からの攻撃に備えなさい。いつの日か、おそらくあなたは破門され、信仰を失った人たちが良い人であると見做されるでしょう。どんな状況においても、自分の信仰を保ちなさい!私は天国であなたを待っています」

確かに、張神父様は熱意と霊的な知恵に富んだ司祭でした。彼は、将来をはっきりと見ることが出来た唯一の方でした。当時、私は本当に彼の言葉に困惑しました、今になって初めて、私は彼が何を言おうとしたのかに気が付いたのです。



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