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何故カトリック教会にとって聖伝のミサがそれほど大切なのか?

2007年03月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

アヴェ・マリア!


何故、聖伝のミサがそれほど大切なのか?


 1962年10月11日、カトリック教会は深い変化の過程に突入しました。何故なら、第二バチカン公会議(1962年~1965年)が神学的・司牧的な新しい指針を提示しようとし始めたからです。


 1969年、教皇パウロ六世は聖伝のミサの新しい司式のやり方を導入しました。この新しい典礼様式は、机上で学者が何から何まで捏造したものであり、それ以前の数世紀もの典礼のやり方と典礼精神を突如として断絶させるものでした。


●ブニーニ司教は新しいミサが聖伝と断絶していると語り、変更は単に些細なものであるに留まらず、実に「根本的な刷新 ・・・ 完全な変更 ・・・ 新しい創造物 ・・・に関わる」と言っている。

 

 聖伝による典礼様式は、数千万、数億の霊魂を15世紀以上にわたり聖化してきましたが、それが突然、断罪され死体としてさらし者にされたのです。全カトリック教会は、引き裂かれました。それを契機にカトリック教会内には思いのまま勝手気ままな詐欺的な典礼革新が導入され、信徒たちはますます教会から離れるようになってしまいました。


 典礼革新導入の20年後には、元々カトリック信徒の大多数であり改革を積極的に取り入れたヨーロッパや、北米と南米などを中心に主日にミサに与る信徒の数は10分の1に激減、一万名以上の司祭たちが司祭職を辞め、大多数の神学校は新学生が集まらずに閉鎖されるようになってしまいました。

●教皇ヨハネ・パウロ二世は、『ヨーロッパにおける教会 ECCLESIA IN EUROPA』の中で、現在の教会の状況を「静かな背教」と呼んだ。

 第二バチカン公会議とパウロ六世の新しいミサとは、実際上「教会の春」などではありませんでした。たとえ一部の教会高位聖職者がそう言い張ったところで、事実は別のことを指し示しています。何故なら、たとえばフランスでは今後2015年までにほとんどの小教区では司祭が不在になるからです。スイスでは、司祭の不在現象は突如として加速的に増え、平信徒によって運営される平信徒の教会が2018年に到来することになると予想されています。


 日本では、2003年のカトリック司教協議会秘書室広報の発表によると、2003年6月1日現在、日本の全司祭1732人(そのうち91人が海外で宣教または勉学中)の平均年齢は60歳、60歳以上の司祭数は998人で全体の約57・6%です。ここ30年、高齢化は急速に進みました。司教協議会秘書室研究企画によると「今後15年のうちに司祭数は半分から3分の1になると予測される」とのことです。つまり、2018年には日本にはカトリック司祭が、530名ないし870名程度になるということです。(2005年の統計によると、司教たちを含めて日本の司祭は1542名でした。)


 この不安な現実を目前にして、世界中で聖伝のミサと聖伝の価値観に立ち戻るべきだという多くの声が上がっています。事実、ローマでも聖伝のミサをもっと多くより自由に捧げるようにすべきだという意図があるようです。


 しかし、ローマのこの意志に反して一部聖職者にはそれに対してためらいがあり、抵抗しています。

 


 ラッツィンガー枢機卿(現教皇ベネディクト十六世)は、その著書の中でこう言ったことがあります。
「典礼の領域における意識の形成のために、1970年まで実施されていた典礼形式を追放していることを中止することが重要である。現在、この典礼が有効であると介入する者、或いはこの典礼を実践している者は、あたかもライ病患者であるかのように取り扱われている。このような態度は、寛容も全て終わりとなる。そのような態度は教会の全歴史において前代未聞のかつてなかったことである。これにより人々は教会のありとあらゆる過去を軽蔑している。もしそうであるなら、人々は教会の現在にどうして信頼することができるであろうか?私の同僚の司教様たちの多くが何故この不寛容の法に従っているのか私にはよく分からない。そのような不寛容は、教会において必要な和解にたいして、たいした理由もなく対立している。」
天主とこの世』より。

(日本語は、Voici quel est notre Dieu, p.291 Voici quel est notre Dieu, p.291から訳出しました。)


 ラッツィンガー枢機卿
「パウロ六世のミサ典書は、司式者が典礼の中にあれこれの要素を自由に選択する或いは導入することができるということを規定しており、それ自体で誤った創造性への扉を大きく開けてしまっている。」

ラッツィンガー枢機卿とフィリップ・マクサンスとの対話 ロム・ヌヴォ誌(L'homme nouveau)



 


 




「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、"あらかじめ設定され"、"何ものにも煩わされるもの" でなければならないのである。ところが、"規則に縛られた古くさい厳格さ" と呼ばれ、"創造性" を奪うと非難された典礼に対する反発は、典礼をも "手作り" の渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した。」
(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』166ページ)



 


 


「典礼は、天才的監督や有能な俳優たちを必要とするショーや演劇ではない。典礼は "好感を覚える" 驚きや "共感" を呼んで生きるものではなく、荘厳な反復を生きる。典礼は今日性(アクチュアリティー)とその一時性を表現するのではなく、神聖なるものの秘義を表現しなければならない。」
(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』165ページ)



 

 教皇聖ピオ五世
「高位聖職者、管理職者、教会参事会員、及び他の全ての如何なる呼称で呼ばれる、在俗又は如何なる修道会員の司祭は、余によって命ぜられたものより他のやり方でミサ聖祭を捧げる事が無いように。又、何によってであろうとも(彼等が)このミサ典礼書を変更すべく強いられ、強制される事無く、又この手紙が決していつの時代でも変更されることの無く、却って〔この手紙が〕常に堅固、且つその適応範囲において有効であるように、同じく余は規定し宣言する。・・・ 故に、絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主〔の憤慨〕及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。
1570年7月14日大勅令『クォ・プリームム』

 

 オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿が教皇パウロ六世へ
「新しいミサの式次第はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。」
(1969年9月25日)

 

 ギヨーム・タバールという一般人が、フランスの司教たちが聖伝のミサ支持する人々に対して取っている態度を見て、ル・フィガロ紙に掲載した常識的なコメントを聞いて下さい。


「いろいろなキリスト教を信じる人々や様々な宗教を信じる人々と極めてオープンな対話をしている中で、ローマを離れたこれらのカトリックに対しては、極めて厳しい敵対的態度を取っているのを見るのには本当に驚く。また同時に聖伝のミサと新しいミサとの2つのミサ典書の共存について不安に思い、教会内部の典礼の一致を熱烈に擁護する人々が、「創造性」の名によってなされた自由放埒から生まれた典礼の極端な多様性については今に至るまで全く気にしていなかったということは全く逆説的でもある。」
Guillaume Tabard, Le Figaro, 2006年11月9日






 






これを書くには、La messe traditionnelle : obscurantisme moyenageux ou renouveau de l’Eglise ?を参考にしました。



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●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
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●第2ヴァチカン公会議について
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