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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

アイルランドのカトリック信者たちの悲壮な訴え「私たちをミサに行かせてください」

2020年11月16日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

アイルランドのカトリック信者たちの悲壮な訴えを聞いてください!
「私たちをミサに行かせてください!」
Please let us go to Mass!

ミサが自由に捧げられる為に、ロザリオの祈りの十字軍が11月21日から開始します!

ご参加ください!







【参考情報】ヴィガノ大司教「何故バチカンは私に証言を求めなかったのか?全く理解できない。」マカリック報告書に関するレイモンド・アロヨによるインタビュー

2020年11月16日 | カトリック・ニュースなど

マカリック報告書に関するレイモンド・アロヨによるヴィガノ大司教へのインタビュー

Archbishop Viganò Interviewed by Raymond Arroyo on McCarrick Report

【編注】カトリック・ファミリー・ニュースは、EWTN【Eternal World Television Network(マザー・アンジェリカが設立したカトリックの24時間放送のケーブルテレビネットワーク)】のレイモンド・アロヨとのインタビューのテキストを掲載することを許可してくださった大司教に感謝申し上げます。これは、マカリック報告書について、さらに理解を深める議論です。このインタビューに出てくる「ザンクト・ガレン・マフィア」に関する特別ビデオリポートを制作中ですので、ご期待ください。

EWTNのレイモンド・アロヨによる
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教へのインタビュー
2020年11月12日

レイモンド・アロヨ:大司教様、この報告書は、あなたがこのバチカンの調査の証拠を提示するために「申し出なかった」と述べています。情報を提供するよう求められたのですか。誰かが連絡してきましたか。

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教:私の名前が306回も出てくる報告書が、セオドア・マカリックに関するバチカンの調査で証言するために私が自ら申し出なかったことを非難しているのを発見して、私は驚いています。しかしながら、教会法の規範によれば、証人の召喚は、調査の段階で集められた証拠に基づいて、そのプロセスを担当する者の責任でなされなければなりません。

マカリックに関する私の最初の介入は、私が国務省の教皇代理使節として行ったもので、当時の駐米大使ピエトロ・サンビ大司教の報告書を受けた2006年12月6日までさかのぼります。その後、2008年に私は、非常に重大で非常に詳細な事実を報告した第2の覚書を提出し、私はマカリックを枢機卿から退位させ、彼を平信徒の状態に格下げすることを勧告するに至りました。2018年8月の私の証言は、その後の私の宣言と同様に、誰もが知っています。

私に証言を求めることが好い機会であると判断されなかったことは、全く理解できませんし、異常なことです。しかし、さらに困惑するのは、この意図的な省略が、ここで、私の立場を悪くするために使われたことです。私がわざと自分に連絡することができないようにしたとは言わないでいただきたいと思います。国務省は私の個人的なメールアドレスを持っており、それは今でも有効なのですから。

一方で、マカリック報告書の起草に私が助言を求められなかったように、2012年にも、ベネディクト十六世が「バチリークス1」【バチカンの内部文書漏洩事件。2015年にもあったため1、2と番号がついている】の調査を担当させた3人の枢機卿は、私が個人的に関わっていたにもかかわらず、私に証言を求めることはありませんでした。委員会のトップであるフリアン・エランス枢機卿は、私の明確な要請を受けて初めて、次のような言葉で、私の証言を許可してくれました。「もしもあなたが本当にやりたいのなら…!」。

さらに、マカリックの性的虐待の被害者のうちで公に糾弾する勇気を持っていた唯一の人物であるジェームズ・グレインが報告書に登場せず、1950年代末に彼がマカリックと一緒に【スイスの】ザンクト・ガレン(St. Gallen)に行った旅行も報告していたはずの彼の証言の痕跡がないことも、私には重要な意味を持っているように思えます。

ジェームズ・グレインの公の発言から明らかなように、マカリックの昇進の始まりは、当時若くて叙階されたばかりの司祭であった彼のスイス訪問、一つの修道院訪問と重なっています。その修道院は後に、いわゆる「ザンクト・ガレン・マフィア(St. Gallen mafia)」の陰謀家たちの集会の場所になるのです。故ゴットフリート・ダンネルス枢機卿の宣言によると、その高位聖職者のグループは、ヨハネ・パウロ二世の死後も、論争となったベネディクト十六世の辞任後のコンクラーベでも、ベルゴリオの選出を支持することを決定しました。

私は覚えていますが、2013年10月11日のヴィラノヴァ大学での講演で、当時のマカリック枢機卿は、数カ月前[2013年3月]に開催されたコンクラーベに先立つ全体総会の冒頭にベルゴリオ枢機卿の選出を支援していたことを認めました。

被告人との過去の関係から、このような明らかな利益相反がある司法機関が、どのような信頼性を持てるというのでしょうか。マカリックが異常な頻度でバチカンを訪れ、2013年6月に中国への外交訪問をするよう[ベルゴリオによって]命じられたときに、ベルゴリオと彼に依存している国務省は、どうしたら公平であるふりをすることができたでしょうか。そして、彼らとマカリック自身の間に存在する共謀と黙認を明るみに出さないために、隠蔽と自分たちの責任の否認を繰り返す試みが、証人としての私の信用を失墜させるための組織的な努力の原因であると、どうしたら考えずにいられるでしょうか。


レイモンド・アロヨ:大司教様、報告書によると、教皇は、2013年6月に、あなたがマカリックの活動や制限についてを教皇に知らせなかったと主張しています。あなたのご回答は。

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教:この叙述は全くの虚偽です。まず第一に、2013年6月23日に、私に対して明示的にマカリックについての私の意見を尋ねたのは、ベルゴリオ自身でした。私が2018年の覚書で次のように証言したように。

私は教皇にまったく率直に答えました。[・・・]「教皇様、あなたがマカリック枢機卿をご存じかどうか知りませんが、司教省に聞けば、彼に関するこれほど厚い書類があります。彼は何世代にもわたって神学生や司祭を堕落させ、ベネディクト教皇は彼に祈りと償いの生活へ引きこもるよう命じました」。

教皇は、私のこれらの非常に重大な言葉については何のコメントもせず、また、その顔にも驚きの表情を見せず、まるで以前からこのことを知っていたかのように、すぐに話題を変えました。しかし、それならば、教皇が私に「マカリック枢機卿はどんな人ですか」という質問をした目的は何だったのでしょうか。彼は明らかに私がマカリック枢機卿の味方かどうかを知りたかったのです。

私の謁見の4日前にベルゴリオはマカリックの謁見を受け、ベルゴリオが彼の中国行きを許可したことを、私はマカリック本人から聞いて知っていました。ベルゴリオはすでにマカリックを非常に高く評価していたのに、私に意見を求めるのにどんな意味があるのでしょうか。

一方、マカリックは密かにローマに来て、バチカンから公式なものも含めた諸任務を受けて、何事もなかったかのように活動を続けていました。2014年5月、私はワシントン・タイムズ紙によって、米国務省(当時の米国務長官はジョン・ケリー)の代理としてマカリックが中央アフリカ共和国に行った旅行のことを知りました。この旅行も報告書の中で言及されています。2014年の話をしています。しかしながら、2008年の初めに、ベネディクト十六世は、この米国人枢機卿に、私的生活へと引退し、公的な【ミサなどの】イベントをおこなったり出席したりせず、旅行もしないように命じていたのです。

このために、マカリックがどのように扱われていたかを見て、私は【国務長官の】パロリン枢機卿に、マカリックに対する制裁はまだ有効であると考えるべきなのかを尋ねました。しかし、私は何の回答も得られませんでした。

その時点で、教皇に直接会って報告し、国務長官から何の回答も得られなかった私には、まだ何かできたのでしょうか。誰に訴えることができたのでしょうか。

報告書から、マカリックの継続的な任務や海外旅行を、ワール大司教、そしてサンビ教皇大使(2011年死去)でさえも、「十分な形の排除」【厄介者払い】と考えていたことを私は知りました(報告書の脚注1013参照)。そして、私は報告書から次のようなことを知って、今でも心の底からショックを受けたままです。

***翻訳者引用はじめ***
脚注1013:言い換えれば、明示的あるいは暗黙的な許可のいずれかによって、状況は全般的に、2008年5月27日の覚書でサンビ大司教によって提案されたアプローチに従ってきたように見えます。20 ACTA 16693(「私たちはすべての人から、その人が持っている最も良いものを引き出さなければなりません。おそらく、最も良いのは、彼が非常に賢明にふるまう限り、彼を海外でのエキュメニカルな宗教間対話や中東和平に関与するのを追求するよう自由にさせておくことであり、彼に国内で関与しないように求めることです」)を参照。
***翻訳者引用おわり***

「・・・指示は、『制裁』ではありませんでした。これらの指示は、教皇ベネディクト十六世によって科されていませんでした。これによれば、マカリックは公にミサを捧げることを決して禁じられておらず、マカリックが講演をすることを禁じられてもなく、レ枢機卿【司教省長官】はマカリックに祈りと償いの生活に専念するという「義務」を科したことはなく、マカリックは教皇大使を含む聖座の許可を得て、旅行を含む活動を行う自由を持ち続けていました」(上掲文書の脚注1006参照)。

そうであるならば、この枢機卿のとがめるべき行為にもかかわらず、聖座はマカリックを懲戒処分にすることを適切とは考えていなかったことになり、私が教皇庁の腐敗を糾弾したことを裏付けていることになります。

レイモンド・アロヨ:報告書は、あなたが司祭3の主張を調査するに際して、少し手ぬるかったように描こうと大きな労力を払っています。(それは、これらの懸念を最初に聖座に報告したのはあなたであるという事実によって描こうとしています。)あなたは、「司祭3の信頼性を断言する立場に」自らを置くことを避けたのですか。

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教:明らかなことは、マカリックの不祥事を明るみに出す上で、私がどのような役割を果たしたかということ、更にまた、私が手にしたどのような情報でも常に聖座に報告するための措置をとってきたということです。思い起こせば、この話は2012年のことですが、ちょうど私が駐米大使に任命されたばかりの頃のことでした。

報告書の中で、私は「司祭3」がマカリックに対して行った告発についての情報を要求されたけれども、それに答えなかったと非難されています。これは絶対に間違っています。私を叩き私の信用を落とすために彼らがでっち上げた欺瞞の証拠を提供しているのは、報告書の執筆者自身です。実際、報告書の別の場所には、2013年6月13日に、私がウエレット枢機卿に手紙を書き、ブートコスキ司教が私に書いた手紙と、「司祭3」に送られた手紙の両方をウエレット枢機卿に送ったと書かれています。私は「司祭3」の民事訴訟が上訴の可能性なく却下されたことをウエレット枢機卿に伝えました。ブートコスキ司教は「司祭3」の告発を虚偽と誹謗中傷とみなしました。

私は特にある側面を強調したいと思います。「司祭3」の教区長でありかつメタチェン[司教区]の司教のブートコスキ司教に、私が書面での連絡を送らなかったと私を非難する人々は、これがまさに国務省の指示によるものであることをよく知っています。また、報告書が確認しているように、ブートコスキ司教と私の間で電話でのやりとりがあって、それについても私がウエレット枢機卿に知らせたことについても、彼らは同様によく知っています。

忘れてならないのは、当時、司祭らが犯した犯罪について、教区が裁判所で裁かれることに不満を持っていた弁護士たちがいたことです。そのような弁護士たちは、多国籍企業の本社がそうするように、性的虐待被害者に補償をするための最終的な責任は聖座自身にあることを証明したかったのです。弁護士のジェフリー・レナは、このことについて何かを知っています。彼は、二つの裁判で、教皇ベネディクト十六世に降りかかった虐待の隠蔽責任を防ぐことに成功しています。


レイモンド・アロヨ:大司教様、マカリックの教会内での出世と地位に関する責任の大部分を、ヨハネ・パウロ二世とベネディクト十六世のせいにした報告書についてどうお考えですか。

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教:報告書を起草した者の意図は明らかです。マカリックの昇進の責任を自分の先任者に転嫁することです。そのうちの一人は故人であって列聖された者(ヨハネ・パウロ二世)、もう一人は年老いて弱っている者(ベネディクト十六世)です。前者は墓場から身を守ることができず、他方で後者はあまりにも柔和なため、自分の後継者をあからさまに嘘つき呼ばわりして、彼の信用だけでなく彼の保持している機能【教皇職】を失墜させることができません。気になるのは、明らかに多くの人の手によって書かれた、この報告書自体の内部に多くの矛盾があることで、その論拠がほとんど信憑性を持っていないことを示すに十分です。

ですから、私は疑問に思います。マカリックに対する深刻な告発を考慮しないようにヨハネ・パウロ二世とベネディクト十六世を説得したのは誰でしょうか。マカリックを昇進させて、権力と金の面で有利になることで利益を得るのは誰でしょうか。

おそらく誰かが、ヨハネ・パウロ二世に、マカリックに対する告発が捏造されたものであると信じさせ、共産主義のポーランドがすでに政権に反対する良き司教や司祭に対して行っていた信用を落とす作戦を手本にしてそうしたのでしょう。

ヨハネ・パウロ二世の場合、マカリックの昇進に利害関係のあった主な関係者は、間違いなくソダノ枢機卿でした。彼は2006年9月まで国務長官を務めていました。すべての情報は彼にもたらされました。2000年11月、モンタルボ教皇大使は、自分の報告書と、マカリックが犯した重大な虐待の告発を彼に送りました。

忘れないでいただきたいのは、この時期にマシエル神父のスキャンダルが発覚し、ソダノは、教皇は事件が解決したと考えていると言われている、とベネディクト十六世の声明を捏造して隠蔽しようとしました。ベネディクト十六世は教理省の全体会議を招集し、アリンゼ枢機卿は、[ソダノ]国務長官の反対にもかかわらず、マシエル神父を断罪することに成功しました。

また、ソダノ枢機卿の名前は、スキャンダラスな不動産投機に関連しても登場しました。2003年、枢機卿の甥であるエンジニアのアンドレア・ソダノは、叔父である国務長官からの推薦状と、フォリエリ不動産グループのコンサルタントとしての立場で(いくつかの公式文書の中には、同グループの副社長と記載されているものもあります)、民事の性的虐待事件の損害賠償をする米国の複数の教区から不動産を最低価格で取得し、教会に損害を与えて自分自身には莫大な経済的利益を獲得しました。このグループのオーナーであるラファエロ・フォリエリは、これらの不動産の売却の際に無謀な取引を行ったため、詐欺とマネーロンダリングの罪で有罪判決を受けました。言うまでもなく、フォリエリは「クリントン・グローバル・イニシアティブ」やクリントン家、民主党と密接な関係を持っていました。「元大統領とヒラリー上院議員は私たちの友人です」とフォリエリは自慢していました。

同じコネクション、同じ共謀関係、同じ知人が常に繰り返し出てきます。マカリック、クリントン、バイデン、民主党、近代主義者、そして関係がないとは言えない一連の同性愛者や性的虐待者とともに。

ベネディクト十六世に関しては、毎日、教皇に直接連絡していたのは、ベルトーネ国務長官と長官代理のサンドリであり、彼らは、マカリックに関する情報を管理し、どれを伝えるかを決めて、教皇に圧力をかけることができました。

再度、報告書がおのずから明らかにしています。教皇ベネディクト十六世に直接にこの件を提出したのはベルトーネ枢機卿でした。私が繰り返し提案してきたこと、すなわち、マカリックに対する非常に深刻で詳細な告発は、彼を枢機卿の位から追放し、平信徒の状態に格下げするための模範的な教会法上のプロセスを必要とするということとは反対に、ベルトーネ枢機卿はベネディクト教皇に、教会法上のプロセスが行われるべきではなく、いかなる教会法上の制裁も定められるべきではなく、その代わりに「マカリックの良心と教会的精神へ単純に訴えること」が行われるように決定させたのです。

そして、ここでまた別の明白な矛盾が明らかになっています。「単純な良心への訴え」と、サンビ教皇大使と私の両方に与えられた正式な指示とを、どうやって両立させることができるのでしょうか。その指示によると、マカリックは彼が住んでいた神学校に居住することができず、公の活動に参加することができず、旅行することができず、祈りと償いの引退生活をしなければならなかったのです。

バチカンの最高レベルの腐敗はあまりにも明白であるため、この報告書は、ベルゴリオを教皇庁のごまかしとは絶対的に無縁であるかのように見せようとする信用に値しない試みであると考えざるを得ません。この報告書によれば、彼は腐敗した者に対する無慈悲な迫害者のように描かれていますが、事実による証拠はその反対であることを証明しています。私の考えでは、バイデンのディープ・ステートとの関係は、ベルゴリオのディープ・チャーチとの関係に対応しています・・・。

また、司教省とその長官のレ枢機卿の否定的な意見にもかかわらず、マカリックの任命についてヨハネ・パウロ二世を非難しているという事実は、イエズス会総長が強い留保を表明したホルヘ・マリオ・ベルゴリオ自身にも適用され得ることにも、私は注目したいと思います。

もしヴォイティワ【ヨハネ・パウロ二世】がマカリックで誤りを犯し、この理由のために、発生した不祥事に暗黙の責任があると考えられているのなら、この[マカリックに関する責任がヨハネ・パウロ二世に帰せられるという]判断が、ベルゴリオをブエノスアイレスの大司教として、その後、枢機卿として昇進させた[これもヨハネ・パウロ二世の責任であるという]ことにも及んでいくのを、どのようにして妨げることができるでしょうか。

2001年の枢機卿会議では、マカリックとベルゴリオに加えて、ザンクト・ガレン・マフィアの他の主要メンバーが赤い帽子を受けていた【枢機卿に任命された】ことを思い出しましょう…。

レイモンド・アロヨ:他に言っておきたいことはありますか。

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教:結論として、リッカルド・カショーリの最近の記事を引用して、彼の明晰な判断を私の意見にしたいと思います。

「連続性犯罪者(serial predator)であったマカリックの人物像が報告書から出てきますが、未成年者への虐待の最初の報告書が届いた2017年までは、大きな反応は引き起こされませんでした。[…]実際には、『大人との不道徳な振る舞い』だと言われていました。これは確かに良いことではないが、しかし、最終的には、大目に見られることである、と。本当の警告音、罰を、しかも重い罰を与える警報は、虐待された者が未成年者である場合にのみ鳴らされる、と。まるで、マカリックとベッドを共にし、その結果、大部分が精神不安定になった司祭生活を運命づけられた何十人もの将来の司祭たちが、実際には大したことではなかったかのように。まるで、司教である性犯罪者によって引き起こされた道徳的な荒廃と信仰の破壊(召命を失って、次には自分が虐待を繰り返す司祭、病的な結びつきによって歪められた司教の[司祭]任命)は、すべてがささいな問題に過ぎなかったかのように」。

「[…]意図的に無視されたのは、マカリックの妨げのない昇進を許したものが、ゲイ・ロビーとしても知られた権力のシステムであり、これは特定の特徴を持つ司教らの任命と経歴を有利にするものだということです。[…]」

「いいえ、教会がマカリック事件から何かを学んだという兆候は全くありません。むしろ、一人の人間が犠牲になって、他の人が静かに[悪事を]続けられるようにしたという意味があります。その一方で、司祭が同性愛の傾向を持っていても問題ないという考えを推し進めているのです」。

今、法律遵守主義という偽りの外観をまとっている、この奇怪な茶番劇においては、腐敗した、ふさわしくない、堕落した高位聖職者たちという、今や評判を落としているイメージを救うためであるなら、[彼らは]教会全体を泥の中に引きずり込むことに、この世の眼前におけるその威信、信徒に対するその権威の全て[に泥を塗っても]、[彼らには]何らの躊躇はありません。今でもバチカンで、ベルゴリオが悪名高い同性愛者やひどく評判の悪い人々を取り巻きに置いているのを観察することだけで私は止めておきます。これは、ベルゴリオの道徳を説く仕事とされるものの最も露骨な否定です。

 

Archbishop Viganò Interviewed by Raymond Arroyo on McCarrick Report - Catholic Family News

Editor’s Note: Catholic Family News is grateful to the Archbisho...

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聖ピオ十世会五十周年にあたっての総長 ダヴィデ・パリャラーニ神父からの手紙 (5) 教会の危機の根本的原因──この世と世の精神に開かれたこと

2020年11月16日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父の聖ピオ十世会創立50周年にあたっての書簡(2020年11月1日付)の続きをご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会五十周年にあたっての総長からの手紙

1. 聖ピオ十世会は戦闘的であるべきか?

2. 霊的生命とは何か?

3. 霊的生命のために必要な手段

4. 自分に身をゆだね基準を失った現代人

5. Le cœur de la crise dans l’Eglise : l’ouverture au monde et à son esprit 5. 教会の危機の根本的原因──この世と世の精神に開かれたこと
Or, ce qui rend dramatique aujourd’hui la crise dans laquelle nous nous trouvons, c’est que l’Église, depuis 60 ans, a choisi d’accueillir cet idéal moderne, et de rentrer dans cette conception d’un univers où Notre-Seigneur n’a plus qu’une place relative. Sa royauté totale n’est plus reconnue, depuis que l’Église s’est faite le chantre de la liberté religieuse : en reconnaissant à la personne humaine une sphère autonome, un droit de vivre selon sa conscience individuelle, sans contrainte, la hiérarchie ecclésiastique en est venue à nier pratiquement les droits de Jésus-Christ sur la personne humaine. さて、私たちが今いる今日の危機を劇的なものにしているのは、教会が過去六十年にわたって、この現代の理想を歓迎し、私たちの主には相対的な場所しかない世界観へ入ることを選択したことです。主の普遍的王権は、もはや認められていません。教会が信教の自由の中心地となったからです。人間のペルソナに、自律的空間、すなわち個々人の良心にしたがって、強制なしに生きる権利を認めることにより、教会位階は、そこからイエズス・キリストが人間のペルソナの上に持つ権利を実際上否定することになってしまいました。
   
Il est devenu quasiment impossible, dans l’Église aujourd’hui, de connaître pleinement et véritablement Notre-Seigneur, et de vivre de la vie spirituelle qui en découle. 今日、教会において、イエズス・キリストを完全に正しく知ることが、またそこから流れ出る霊的生命を生きることが、ほとんど不可能になっています。
   
De fait, non seulement sa royauté, mais sa divinité même est remise en question, depuis que l’Église a décidé de reconnaître à l’homme, au nom de sa prétendue dignité, la liberté de choisir ou de refuser Notre-Seigneur. De cette manière, les hommes d’Église font taire le Sauveur lui-même qui dit : « Je suis la Voie, la Vérité et la Vie. » (Jn 14, 6) Ils font même mentir saint Pierre qui proclame : « Il n’y a de salut en aucun autre ; car il n’y a sous le ciel aucun autre nom qui ait été donné parmi les hommes, par lequel nous devions être sauvés. » (Ac 4,12) 事実、私たちの主の王権のみならず、天主性にも疑問が投げかけられています。教会が、人間が本来もっている尊厳の名の下に、人間は私たちの主を選ぶも拒否するも自由だと認める決定をしたからです。こうすることで、聖職者階級は「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と仰せられた天主なる救い主を黙らせました。彼らは「救いは主以外の者によっては得られません。この世においてわれわれの救われる名はそのほかにはないからです」(使徒行録4:12)と宣言した聖ペトロさえも偽り者にしたのです。
   
Par conséquent, sans préjuger des grâces personnelles que Dieu reste libre de donner à quiconque, il est devenu quasiment impossible, dans l’Église d’aujourd’hui, de connaître pleinement et véritablement Notre-Seigneur, sa divinité, sa royauté et tous ses droits, le salut qu’il nous apporte. Il est donc devenu pratiquement très difficile de vivre de la vie spirituelle qui en découle. C’est dire la gravité de la crise dans laquelle nous nous trouvons plongés ! Ce n’est pas seulement la messe, les sacrements, la foi, qui sont en péril : c’est, à travers tout cela, la vie d’union à Notre-Seigneur que tous ces moyens sont destinés à nous procurer. C’est la fin même de l’Église, le but ultime de la vie chrétienne qui se trouve tragiquement compromis. 従って、天主が誰にも与えることが全く自由である個人的な恩寵を判断に入れないならば、今日、教会において、イエズス・キリストを知ること、主の天主性、その王権、その全ての権利、主が私たちにもたらしてくださる救いについて完全に正しく知ることが、ほとんど不可能になってしまいました。従って、そこから流れ出る霊的生命を生きることが極めて難しくなってしまいました。これは私たちが深く入り込んでいる危機の深刻さを物語っています! 危機にさらされているのはミサや秘蹟、信仰だけではありません。これすべてを通して、これらすべての手段が私たちに与えるはずの私たちの主との一致の生命が危機にさらされています。つまり、悲劇的に妥協されているのは、教会の目的それ自身であり、キリスト教的生活の究極の目的なのです。
   
Notre fondateur le constatait avec désolation : « Ils ne transmettent plus Notre Seigneur Jésus-Christ mais une religiosité sentimentale, superficielle, charismatique. […] Cette nouvelle religion n’est pas la religion catholique ; elle est stérile, incapable de sanctifier la société et la famille [5]. » 私たちの創立者は、深い悲しみをもってそれに気が付いていました。「彼らはもはや私たちの主イエズス・キリストを伝えていません。そうではなく、感傷的で、表面的で、カリスマ的な宗教心しか伝えていません。[…] この新しい宗教はカトリックの宗教ではありません。これは不毛であり、社会も家族も聖化することはできません。」[5]

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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