彦四郎の中国生活

中国滞在記

旧北陸本線(敦賀—今庄 間) 隧道群 廃線跡を行く❶—圧巻! 明治29年開通の12トンネル群—

2016-08-23 06:04:56 | 滞在記

 8月上旬頃の朝日新聞を見ていたら、「旧北陸本線隧道群 廃線跡を歩く 10月9日(日) 1日限定日帰りツアー企画 旅行代金7980円/明治時代の近代化遺産 赤レンガ造りの6つの隧道(トンネル) / 旧北陸本線の敦賀から今庄間には当初12の隧道(トンネル)がありました。昭和37年、北陸トンネルが開通し廃線となった現在、10の隧道群が残されており、ツアーではその隧道のうち6つを巡ります。/個人では行きづらい旧北陸本線廃線跡をウオーキング。」という旅行会社の宣伝記事が掲載されていた。
 この旧北陸本線跡地は、私の故郷「南越前町」と敦賀市にかけての場所に存在している。何十年来と いつも、故郷の家への往復路に近くを車で通っている。一度 この廃線跡に行ってみたいと思い続けていたが、車で行けるとは思ってもいなかったので、一度も行ったことがなかった。車で 残っている10のトンネル群と廃線跡地をたどることができると知ったのは、つい最近のことだった。
 遠い昔の6才のころ、この旧北陸本線(今庄—敦賀間)の列車(D51型機関車)に乗った記憶が おぼろげながらにある。33才で母が早世し、49日の法要を終えて 本山の「滋賀県大津市坂本にある西教寺」に母の遺骨を納めるために 家族とともに武生から 列車というものに初めて乗った時の記憶である。「いくつかのレンガトンネルを通過して、『杉津(すいず)』という名の駅から見た 美しい日本海の景色」を おぼろげながらに いまだ記憶している。だから、一度 とても行きたいと思い続けていた廃線跡地であった。

 8月13日、お盆を故郷で過ごすために 妻と共に京都の自宅を午前9時ころに車で出発した。翌日の14日には 息子と彼の婚約者が 故郷の家に来ることになっていた。13日の夕方には、故郷の村の「円光寺」というお寺に行き、お参りをして 先祖の霊を 実家の仏壇に迎え入れなければならなかったが、「今回のお盆帰省の時には、この廃線跡地を探して ここを通過して 故郷の実家に戻ろうか。」と相談していた。
 盆の時期なので、高速道路(京滋バイパスや名神)は大渋滞。間道と高速道路を交互に利用しながら、敦賀インターから一般道の国道476号線に入る。この国道は敦賀から今庄に行くことができる道の一つだ。しばらく走ると、道の左に①「樫曲隧道」(86m)が見えたので、見学した。この隧道は 国道476号線を通るたびに 何十回と見たことがあったが、旧北陸本線のトンネル跡地だということは はっきり知らなかった。トンネルについての案内板が作られたのは つい最近のようだ。いわゆる日本各地の「近代化遺産」の何か所かが世界遺産登録がされたことが きっかけなのかもしれない。
 さて、問題は 「樫曲隧道」が12のトンネルの1つだとはわかったが、残りの11の隧道を含む廃線跡地に行くには どういったらいいのかが わからなかった。戻って探したほうがいいのか、今庄方面に進んだほうが いいのか。とりあえず、今庄方面に476号線を木の芽峠トンネルに向かって登って行くことにした。しばらく車で登って行くと、国道から分岐している 水田の側にある やや細い道 との三叉路に「近代化遺産周遊ルート」という真新しい看板を 国道の左手に見つけた。「この やや細い道を行ったら 廃線跡地に通じるかもしれない!」と思い、車を進める。(※この看板は、今庄方面から敦賀に向かう場合には 下りカーブしている場所でもあるので 文字を見つけることが ほぼ難しい。)
 この道を通って行くと、レンガ造りのトンネルがようやく見えて来た。②「葉原隧道(974m)」とあった。トンネルの入り口に信号があり、「待ち時間5分」の交互通行となっていた。長い待ち時間が終わってトンネルの中を走る。1kmあまりの 狭くて長い長いトンネル。夜に走るのは さぞかし 不気味で怖いだろうな。昼でも一人では怖いだろうな。なにか 幽霊などが出そうな 本当に怖いトンネルだ。

 長いトンネルを抜けると、廃線跡地に作られた道路となっていた。対向車がやってきた。「佐川急便」のトラックだった。「この道路は、生活道路としても 使われているんだ。向こうの集落から来たようだから、この道は 今庄方面の方に 行くことができるんだ!」とようやく判断できて安心した。
 日本海や敦賀半島が見え、この道と並行して「北陸高速道路の上り線」に車が走っていた。「杉津(すいず)」のシンボルとなっている小さな半島のような「杉津崎」が見えた。ここの近くには、現在「北陸高速道路・杉津PA(パーキングエリア)」があるはずだ。このPAは、北陸高速道路の中で、最も風光明美であると思う。
 さらに車で走ると③「鮒ケ谷隧道64m」が、そして④「曽路地谷隧道399m」があった。  ※次号に続く



奈良県十津川村(日本一大きな村)—「谷瀬の吊り橋(日本一長い吊り橋)」を渡る—

2016-08-21 18:55:20 | 滞在記

 京都の三条大橋から四条大橋にかけての鴨川の夜。鴨川の川面に「川床」の明かりが映っていて情緒をかもしだす。
 8月6日(土)、京都市内の「丸善書店」のからの帰り、三条大橋を渡ると 恒例の「鴨川納涼」が開催されていた。鴨川に沿った小さな水路「禊(みそぎ)川」の上に張り出した「川床」。毎年8月上旬の土日に開催されている「鴨川納涼」を覗いてみた。大勢の人で賑わっていたが、外国からの観光客の姿も多い。

 たくさんのテント露店が並んでいる。47都道府県の各露店の店。私の故郷福井県は「越前おろしそば」を食べさせる店。京都府の各市町村の露店も立ち並ぶ。そして、「鴨川」に関連した団体の露店も立ち並んでいる。食べてみたいものがいっぱいある。
 中央ステージでは、いろいろなステージ演技が行われていた。小さな別のステージでは、「演歌ショー」。日が暮れかけてきたら、鴨川の川面で「友禅流し」が実演されていた。こういうところは、独りでくるのが 侘しいなあ。

 8月10日(水)、妻と一緒に「日帰り旅行」に奈良県十津川村に行くこととなった。日本一大きな村で、日本一長い吊り橋がある十津川村。温泉「十津川温泉郷」もあるので、一風呂浴びるという計画。
 朝の7時半頃に京都の自宅を車で出発。途中 高速道路(京奈和)なども利用しながら、ひたすら南下する。コンビニなどで適当に休憩。11時頃に奈良県五條市の駅前に着いた。ここから紀の川にかかる𣘺を渡ると国道168号線。この道がすごい道だった。カーブやトンネルが連続し、所々 国道とは思えない細い道。山また山の長い道。午後1時頃、十津川村の「谷瀬の吊り橋」にようやく到着。かなり疲れた。

 十津川村には52の吊り橋があるようだ。この「谷瀬の吊り橋」は1954年(昭和29年)に住民の生活用の橋として、住民がお金を出し合って作られた吊り橋だという。長さ297m・高さ54mで、日本最長の吊り橋。渡ってみると、橋の両側に金網の柵があるので恐怖感は少ないが、人が歩くと けっこうゆらゆらと揺れる。

 橋の下は清流が流れ、泳ぎを楽しむ人の姿が小さく見える。ここから車で さらに1時間ほど行くと「野猿」という人力で渡るロープウェイ吊り橋もあるらしい。
 「谷瀬の吊り橋」をさらに南下すること30分。「十津川温泉郷」の一つである「湯泉地温泉郷」に到着。この温泉郷の一つ「滝の湯」に行く。小さな渓谷の滝を見ることができる露天風呂がある。なかなかの風情だ。この露天風呂に入るのを楽しみにしていたが、この露天風呂に入って体をつけることはできなかった。なぜかというと熱すぎるのだ。温度は48度〜50度くらいだろうか。片足を入れただけで、10秒も我慢できないくらいに熱い。近くに水道があったので、お湯を水でぬるくして体にかけるのが関の山だった。極寒の冬だったら入れるかもしれない。
 この「十津川温泉郷」には、3つの温泉郷がある。「湯泉地」「上湯」「十津川」の各温泉郷。「源泉かけ流し温泉(※水で温度を下げたり、加熱した湯で温度を上げることをしない温泉)」として有名なようだが、これだけ熱すぎるのもどうかと思った。露天風呂とちがう室内風呂の方は適温だった。女湯の方は、室内風呂は熱くて入れず、露天風呂の方は適温だったらしい。
 この十津川村を南北に走る168号線には、日本一長距離の路線バスが走っていた。行きかうバスを見ると「新宮行」とか「大和八木」とバスのプレートに書かれていた。奈良県の「近鉄大和八木駅」と和歌山県の「JR新宮駅」(太平洋沿岸)の間を走り、紀伊半島を南北に走っている路線バスだ。高速道路を使わない路線バスとしては日本一を誇る奈良交通の「八木-新宮 特急バス」。全長距離166.9km、停留所数167か所。ほぼ1km毎に停留所があるようだ。このバスの後ろを車で走ると、道が狭いので なかなか追い越すことができなかった。特急バスとはよくぞつけたり。なかなかユーモアがある。乗換しないで本州最南端の太平洋まで行けるという意味では特急だが。
 午後4時。京都の自宅に向かって十津川村を出発。午後7時頃 奈良盆地の大和郡山付近で夕暮れとなった。西に見える生駒山系の夕焼けが 異様なほどに美しかった。午後9時頃、自宅に到着した。小さな旅が終わった。









道なき急峻な斜面を迷いつつ ひたすら登りきると、ようやく辿り着いた山頂に「静原城」があった❷

2016-08-13 07:06:27 | 滞在記

 午後5時、下山をするタイムリミットになった。長い尾根を下り始めて「静原南城(仮称)」方面に向かう。ここは、道がはっきりとわかるので安心感がもてる。遭遇した一頭の鹿が、驚いて 斜面を駆け下りて行った。野猿の警戒音(声)も聞こえる。少し怖いので鳥肌が立つ。道はいたるところ、倒木でふさがれている。
 城跡に到着したようだ。すばらしい「堀切」が見えた。この「堀切(山の尾根をV型に掘って、背後からの敵の侵入を防ぐための防護施設)」には、「土𣘺(土の𣘺)」の跡が少し残っていた。そして、この「堀切」を登り切ると「本丸跡」に到着できた。この「静原南城」は、石組の石垣がけっこう使われている。小さな窪地の周りも石垣が見られる。この窪地は井戸のあった場所かもしれない。

 この「南城」は、「静原城」とは別の城だった可能性も考えられる。3か月間の籠城の末に降伏した後、明智光秀が新たな(小高い)場所に築いた城の可能性もあるようだ。なぜかというと、①「静原城」と一体の城であるならば、「静原城」とを遮断するような大きな「堀切」の存在は不思議である。②「南城」の石垣の多さ。
 いずれにしても、この静原という場所は、「京都の鞍馬・京都の大原・京都市内」を結ぶ 交通の要衝という地なので、明智光秀が 高所の「静原城」を捨てて、より平地に近い小高い場所に城を築いた可能性が大きいと考えられる。

 午後5時45分頃、ここから下山を始める。20分ほどで麓に着いた。「熊出没注意!」の看板があった。熊に遭遇しなくてよかった。遭遇に備えて「小刀(しょうとう)」の鉈(なた)は持ってはいたが。

 車を置いている「静原神社」に歩いて戻る。車で再び 人気の少ない場所の「静原川」に戻り、汗だくになった着衣のまま、川の深い場所に飛び込む。「超 気持ちがいい。」 周りに人の姿がないことを確かめて、ズボンやパンツを脱ぎ、体をタオルで拭いて 着替える。

 この静原川は蛍の生息地のようだ。川の中の石の上には、蛍の幼虫の食べ物となる「カワニナ(小さな貝)」がたくさん生息していた。
 午後6時半、山間地の夕暮れ。ここから2時間あまり車に乗って自宅に8時半すぎに戻った。ビールを少し飲み、コンビニ弁当を食べたら、疲れで いつのまにか眠っていた。翌日、太腿の筋肉痛が始まった。心地よい疲れと、健康的な筋肉痛を久しぶりに経験できた。山城探訪という登山は、ある種の探検だが 健康にはとてもいい。




道なき急峻な斜面を迷いつつ ひたすら登りきると、ようやく辿り着いた山頂に「静原城」があった❶

2016-08-13 06:07:18 | 滞在記

 10月16日(日)に結婚式を挙げる予定の息子。「お嫁さん」になる娘さんの両親と初めて7月24日(日)に会った際、実家(伊佐家)が14代以上続く旧家であると知らされた。京都市洛北の岩倉地区の旧家で水田も所有しているようだった。
 岩倉地区は、中世の昔には「岩倉山本氏」という土豪(豪族)が勢力を有していた。この土豪山本氏の事を改めて調べてみると、その一族の歴史は源氏にさかのぼる。もともとは滋賀県(近江)の出自。それが歴史の流れのなかで、一族の「娘」が岩倉の「伊佐家」(※もとの出自は近江)に嫁いだことが縁となり この地に勢力をもつこととなったようだ。
 この岩倉地区には「伊佐」という姓は、けっこう多いらしい。小学校のクラスに1人は「伊佐」という名字があるようなので、「伊佐家」の本家か分家かどうかはわからないが、ともかく 遠い昔に「土豪山本氏」と なんらかのつながりがあった家系なのかもしれない。この山本氏は、戦国時代の始まりの「応仁の乱」を戦いぬき、そして戦国末期に織田信長の部下であった「明智光秀」の軍勢に対して3か月籠城。そしてついに落城した城が、岩倉地区からほど近い「静原地区」にある「静原城」である。
 この城跡には6〜7年ほど前に登ったことがあった。相当な苦労をした記憶がぼんやりと残っている。なかなか「いい山城」だった記憶もある。今回の息子の結婚も一つの縁かと思い 8月9日(火)の午後  再び行ってみることとした。
 「岩倉地区」に行く。水田がある。旧家の家々もけっこう多い。「実相院」という古刹(寺)がある。「床紅葉」で有名な寺でもある。この寺の背後の山にも「山城」がある。山本氏の本拠地の城「岩倉山城」という城。ここにも、5〜6年前に行ったことがあった。

 静原地区に到着する。午後3時。静原城のある山を確認する。山頂まではかなり高い。標高は480mある。登り口の「静原神社」を探し、神社前に車を駐車して 山に登り始める。最初の20m〜30mほど登ると山道がなくなり、急峻な山の斜面を 迷いながら 戻りながら ひたすら 這うように登る。この日も気温は35度以上。かなりきつい。登り始めて1時間。午後4時を過ぎる。山の夕暮れは早く来る。やばい。道がないので 迷ってばかり。でも上に上に行けば おそらく山頂に行けるはずだ。どうしょう---。もう山を下ろうか。危険だな------。

 午後5時には、山頂の城跡までたどり着かなくても 危険なので下山すると決めて ひたすら登り続ける。貴重な水を少しずつ飲む。のどはカラカラ。登り始めて1時間半たった4時半頃、ようやく城跡らしい遺構が目に入った。「ようやく着いた!!!」 タヌキが驚いたように逃げて行った。
 「静原城」の本丸跡には、わずかに石垣跡が見られる。城の案内看板が設置されている。ここ何年も人が訪れた気配はない。「静原城」本丸跡地にてしばらく休憩をする。



福建師範大学の中国人の同僚が家族とともに来日❷—関西(京都、奈良・大阪)、京都での一日—

2016-08-05 08:55:04 | 滞在記

 翌日の31日(日)の午前9時に、車で迎えに ゲストハウス(宿泊)に到着。その日から2泊(31・1日)予定の「ウエスティン京都 都ホテル」に向かう。このホテルは おそらく京都のホテルとしてはベスト5に入るホテル・旅館かと思う。かなり歴史ある老舗ホテルで、値段もリズナーブル(手頃)。ベスト5の中では、値段が最も安いが、立地条件や景色は 最も優れたホテル・旅館かと思う。かって、アメリカ大統領のレーガンが日本訪問した際に宿泊したホテルでもある。
 ホテルに行く途中、平安神宮と南禅寺に それぞれ30分間あまり立ち寄り 自由に観光してもらう。私は 駐車場代がもったいないから 車付近で 煙草を吸いながら待つ。三条蹴上にある「ウエスティン京都 都ホテル」に到着。チェックインは午後3時からのようなので、倪さんたちの荷物を預かってもらった。ちなみに、このホテルの宿泊代金は ダブルベットが2つある部屋で一泊(※何人が泊まっても同じ料金) 19000円。日本庭園が見える 広くてきれいな部屋だった。3人で一人分は6300円程度と このホテルの格式からすれば超格安。このホテルは、6月下旬に 中国から 私が電話予約したものだったが、中国からの国際電話一本で 外国人宿泊でも簡単に予約ができた。

 午前10時すぎにホテルを出発し、途中 京都大学構内に立ち寄り 20分間ほどの見学をして、金閣寺に向かう。11時ころから「金閣寺」を1時間ほど見学してもらう。その間、私は 近くの喫茶店で 時間を過ごした。この日の気温は35度を超える猛暑日だった。
 正午近くに金閣寺から戻ってきて、簡単な昼食後に 倪さんの希望で「竜安寺」に行く予定だったが、あまりにも暑いので 寺の見学はとりやめて 涼しい 「八瀬・比叡山」に行くこと変更した。ひたすら、比叡山山麓の「八瀬」に車で向かう。

 大原方面に源流がある高野川(鴨川になる)が流れる「八瀬」は、涼しかった。叡山ケーブルと叡山ロープウェイを乗り継いで、比叡山の山頂(848m)に着く。途中で鹿を見る。やはり、山頂は下界より5度以上は涼しかった。東洋で一番の距離と高低差を誇るケーブルを体験してもらった。山頂にある「比叡山ガーテンミュージアム」の花々の美しさを堪能していた。「恋人の聖地」というプレートのある場所で撮影する様子がほほえましい。ここのレストランで昼食をとった。

 再び、ロープウェイとケーブルで下山し、八瀬の河原に行く。大勢の川遊びをする人達で、にぎやか。バーベキューをする人たちも。倪さんと潘さんの夫妻も 川遊びに戯れていた。しばらくして、夫の潘さんが よろけて 川の中に全身が入ってしまった。ポケットに入っていた携帯電話も水に浸かってしまった。すぐに、携帯の水をふきとったので使うことができていたが、30分後には 使用できなくなってしまった。

 午後4時頃、ホテルに戻り「チェック・イン」をする。1時間半ほど ホテルの部屋で 着替えや休憩をしてもらった。その間、私は近くの白川に行き、休憩。この川でも 凉を求める人が楽しんでいた。「京都は森と水に恵まれた」「生活の中にいろいろな清流がある」都市だと改めて思う。午後5時半ころ、再びホテルに迎えに戻った。

 車で、先ほどまでいた「白川」を通り、「祇園」に向かう。八坂神社や円山公園の境内にある地下駐車場に車を駐車。祇園界隈の白川辰巳𣘺石畳を案内する。午後6時半から予約していた祇園の「やげんぼり・花見小路店」に行く。立命館大学大学院生の林さんも来店してもらい、倪先生に紹介し、一緒に食事をした。中国では、日本以上に「人脈作り」が重要なので、林さんにとっても倪さんと知り合うことは有意義だろうと思う。
 1時間半ほどの夕食宴を終えて、祇園から四条大橋、先斗町、高瀬川や河原町を案内した。そして、三条大橋で みんなと別れた。林さんは市内バスでアパートへ、倪さんたちはタクシーでホテルに戻って行った。私は、再び駐車場にもどり自宅に戻った。車なので、今日はノンアルコールビール。

 ―倪さん家族のその後—
 翌日の8月1日(月)は、家族だけで奈良観光をして、奈良から大阪観光に向かい、夜に京都のホテルに戻った。そして、翌々日の8月2日に、大阪の伊丹空港から 北海道の旭川空港に到着。旭川在住の中国人の知人の案内で温泉旅館に宿泊。8月3日は、旭川から美瑛や富良野の「風のガーデン」を観光し、富良野周辺に宿泊したようだ。
 8月4日は、富良野から札幌へ。札幌市内観光や小樽観光をして、今日(8月5日)の午後に千歳空港から東京の成田空港に向かう予定。そして、数日間 東京や 富士山周辺にて滞在し、8月9日に中国に帰国予定。

 なお、倪さんは この9月11日から約3カ月間 再び日本にきて 東京で研修をする(拓殖大学)予定だそうだ。