台北駅の地下に人体に鳥の頭部が載っている(被っているのかもしれない)等身大の彫刻があって。
初めて観た時から大好きで、台北駅を使うときは、できるだけその前を通るようにしている。
数日まえFBの「*年前の今日」でその写真をアップしたところ、
台湾で公演を見たことのある旧知の演出家が「これは僕の作品だよ!」と知らせてくれた。
びっくり。
彼の舞台作品も大好きなんだけど、やっぱり底辺に共通するものを感じたのだろうか。
「グリーンブック」を見終わって、「当事者論」を考えている。
この映画では、今よりももっと黒人差別がきつい時代(第2次世界大戦後だけど)のアメリカで、
黒人を後ろに乗せて白人が運転手になって旅をする実話をもとにしたお話。
映画なので当然、黒人の役は黒人の俳優が演じ、白人の役は白人の俳優が演じている。
これを舞台で日本人が演じるとしたら、過去の事例によれば、
黒人の役の俳優は、顔を黒く塗ることが多い。
そして白人の役を演じる日本人は、特に何もしない。
または金髪のカツラを使う。
そして、差別される黒人、のエッセンスは、黒人にしかわからないことなのだろうか、と考える。
本来、俳優はどんな役でも演じることができるはず。
だから、挑戦するべきだと考えている。
映画では、ごく普通に、黒人の役は黒人が、アジア系はアジア系が演じることになる。
ちなみに、「グリーンブック」の白人はイタリア移民(の役)なんだけど、北欧系のアメリカ人が演じている。
(イタリア系の俳優かと思ったら、北欧系で驚いた)。
日本を舞台にしたアメリカのお芝居の写真で、
金髪の白人女優たちがセーラー服を着て女子学生を演じている写真を見たときに、
どうしようもない違和感を感じてしまったことがある。
ただ、これは写真だからで、実際の舞台で彼女たちの演技に触れたら、別の体験になったに違いないと信じている。
最近、当事者の役は当事者が、例えば、
ゲイの役はゲイの俳優(当事者)が演じた方が、いいのではないか、という議論が広まっている。
ちなみに、プレイバックシアターでは、テラーの話を瞬間的に即興で再現するので、
エッセンスが大事。
例えば、一緒に暮らしている犬、を演じるときに四つん這いになってワンワンと吠える必要はない。
(もちろんその方がいい時もある)
テラーがその犬をどう見ているのか、のエッセンスによるからだ。
ただし、パフォーマンスの時間は長くても5分。
だから成立するのかもしれない。
「Hamlets/ハムレッツ」や「ジュリエッツ」などで東北の震災を扱っている自分は、
被災した、または身近な人たちが被災した東北の人たちと作業を続け、10本以上の舞台を創ってきた。
このシリーズは、ドキュメンタリーの要素を孕みつつ、
テキストとして「ハムレット」を使わせてもらっている。(「ジュリエッツ」も)
だからもちろん「ハムレット」の上演を期待されても困る。(タイトルも複数形だし)
若い女優たちが、自分の、または別の東北人が被災したストーリーを読む時、
そこには、複雑な感情が浮かび上がってきて、切実に迫るものがある、と毎回感じる。
「自分のストーリー」の場合、俳優であるからこそ可能なことだと思っている。
もちろん、震災を底辺に置いて、ハムレットとオフィーリアの会話を俳優たちに演じてもらっても同様だ。
その「場」に東京の俳優やアーティストが絡まっていくことで生まれる何か、と提示してきた。
そして、津波も建物が崩壊するような揺れも体験していない
東京や神奈川の俳優たちが(「被災」はしている)、彼らの代わりに立つことはあり得るのだろうか。
(もちろん可能であることを目指したい)
これのみぞ思うこと。(謎)
回答のない永遠の問い、だとは思うんだけど。