金曜日朝、寝床で目覚めて何気なくネットを見ていたら、渡邊守章さんの追悼記事が。
4月11日に亡くなられたそうで。
さすがに思いが巡る。
19歳の時、劇団が運営していた劇場でご一緒することになった。
初めて「音響」を担当してギャラもいただいた「お仕事」で。
なぜか、とても可愛がっていただいた。
当時、劇場には早稲田大学の郡司正勝先生や鳥越文蔵先生はじめ、
外語大の山口昌男さんのようなキラ星のような「知」が集まっていた。
守章さん(あえてこう書く)は現場をご一緒したおかげで
その「知」の深みに触れることができた最初の「先生」だった。
ある時の早稲田大学での講演は蓮見重彦さんと一緒で、
遅れて駆けつけた後、お二人と高田馬場まで歩きながらお話を伺えたのも大事な体験で。
その後、訳・演出されたジュネの「バルコン」(企画制作は薄井幸雄さんの「会」)に最年少の役者で参加させていただいたのだけど、
ジュネの作品だけに、自分は女形で。
長い充実した稽古の後に、その公演は残念ながら頓挫。
(その時はジュネの意向で世界的に彼の作品の上演は許されなかった)
「発表会」をやって終了。
その後、新しいチームを作るから女形で参加してほしいと頼まれたのだけど、
女形には、興味がなく、その後なんだか距離ができてしまっていた。
1995年、パリのサンジェルマンで「こんなところ歩いていると守章さんに会いそうだ」と話していたら、
本当に目の前に座っていて、お互いに目を見開いて立ち尽くしてしまったのだった。
21世紀を迎えて「バルコン」がめでたく上演の運びとなり、世田谷まで出かけていった。
もちろん受付にいらっしゃった先生は、喜んでくださったのか、
有料のパンフレットをわざわざ座席にまで持ってきてくださって「これ、あげる」と。
今では懐かしい思い出。
郡司先生もそうだけど、守章さんの仕事の領域の広さと深さ。
そして根っこの深さ。
本当に日本を代表する「知」の一人だ。
お宅に伺って見た、あの小さな仕事部屋に満ちている創作のエネルギーは今も身のうちにある。
先生、マラルメの本、ちゃんと買いましたよ。
ああ、もう一度お会いしたかったなあ。
稽古場に向かう途中の駐停車禁止のマーク。
止まりません。走り続けます。
4月11日に亡くなられたそうで。
さすがに思いが巡る。
19歳の時、劇団が運営していた劇場でご一緒することになった。
初めて「音響」を担当してギャラもいただいた「お仕事」で。
なぜか、とても可愛がっていただいた。
当時、劇場には早稲田大学の郡司正勝先生や鳥越文蔵先生はじめ、
外語大の山口昌男さんのようなキラ星のような「知」が集まっていた。
守章さん(あえてこう書く)は現場をご一緒したおかげで
その「知」の深みに触れることができた最初の「先生」だった。
ある時の早稲田大学での講演は蓮見重彦さんと一緒で、
遅れて駆けつけた後、お二人と高田馬場まで歩きながらお話を伺えたのも大事な体験で。
その後、訳・演出されたジュネの「バルコン」(企画制作は薄井幸雄さんの「会」)に最年少の役者で参加させていただいたのだけど、
ジュネの作品だけに、自分は女形で。
長い充実した稽古の後に、その公演は残念ながら頓挫。
(その時はジュネの意向で世界的に彼の作品の上演は許されなかった)
「発表会」をやって終了。
その後、新しいチームを作るから女形で参加してほしいと頼まれたのだけど、
女形には、興味がなく、その後なんだか距離ができてしまっていた。
1995年、パリのサンジェルマンで「こんなところ歩いていると守章さんに会いそうだ」と話していたら、
本当に目の前に座っていて、お互いに目を見開いて立ち尽くしてしまったのだった。
21世紀を迎えて「バルコン」がめでたく上演の運びとなり、世田谷まで出かけていった。
もちろん受付にいらっしゃった先生は、喜んでくださったのか、
有料のパンフレットをわざわざ座席にまで持ってきてくださって「これ、あげる」と。
今では懐かしい思い出。
郡司先生もそうだけど、守章さんの仕事の領域の広さと深さ。
そして根っこの深さ。
本当に日本を代表する「知」の一人だ。
お宅に伺って見た、あの小さな仕事部屋に満ちている創作のエネルギーは今も身のうちにある。
先生、マラルメの本、ちゃんと買いましたよ。
ああ、もう一度お会いしたかったなあ。
稽古場に向かう途中の駐停車禁止のマーク。
止まりません。走り続けます。