みちのくの山野草

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2456 『宮澤賢治研究3・4』より

2011-12-14 09:00:00 | 賢治渉猟
《『宮澤賢治研究3』の内容》
<『宮澤賢治研究3』(草野心平著)より>
1.『宮澤賢治研究3』
 ではまず『宮澤賢治研究3』について。
 その内容は上記の通り。同誌に載っているものも殆ど以前に目を通したものであり新たな発見はほぼなかったが、確認できたことが一つある。

 以前〝菊池信一のことを少し〟において
 気になった二つ目は
⑧ 昭和五年十一月廿二日
  菊池信一宛(謄写版)
   岩手縣稗貫郡下根子 羅須地人協会

<『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著)86pより>
のものであり、その中味は以前〝〝定期の集まり〟案内状(T15/11/22付)〟で示した「案内状」
 一、今年は作も悪く、お互ひ思ふやうに仕事も進みませんでしたが、
  いづれ、明暗は交替し、新らしいいゝ歳も来ませうから、農業
    …(略)…
  五、それではご健闘を祈ります。       宮沢賢治

と同一のものである。なお、この書簡⑧は『校本』書簡集には書簡としては載っていないようだ。
 もちろん、ここでの〝昭和五年十一月廿二日〟の日付はほぼ間違いで正しくは〝大正十五年十一月廿二日〟であろう。

と私は言及したことがある。

 これと同一のものであろう書簡がこの『宮澤賢治研究3』にも載っていて次のようになっていた。
菊地信一氏宛 昭和五年十一月廿二日(謄写刷)
                     羅 須 地 人 協 會
                          岩手縣稗貫郡下根子
一、今年は作も悪く、お互ひ思ふやうに仕事も進みませんでした
 が、いづれ、明暗は交替し、新らしいいゝ歳も来ませうから、農業
    …(略)…
五、それではご健闘を祈ります。
                        宮 澤 賢 治

<『宮澤賢治研究3』(草野心平編輯)23p> 
 日付の間違いからして、板垣氏はこの『宮澤賢治研究3』から同書簡を引用したのであろうということが推測出来た。

2.『宮澤賢治研究4』
 次は『宮澤賢治研究4』について。その内容は以下のとおり。
《『宮澤賢治研究4』の内容》

<『宮澤賢治研究4』(草野心平著)より>

 同じく、この号でもって初めて見たというものはないような気がするが、先日境氏の堀尾氏に対するのインタビュー記事を見たばかりであり、その関連で八重樫祈美子の「花巻・人と町のプロフィール」に少しだけ触れてみたい。
 そのために、まずはインタビュー記事の中にあった次のことを紹介したい。
 で、良質な資料を発掘したい、客観的な資料がなくてはという考えから、多くの方とあい、新聞もよく探しました。しかし「花巻新聞」に、賢治と藤原嘉藤治さんとのゴシップが出たことがあります。〝おまえたちは、べんととくじゃ〟という、ね、――べんととくは知能指数の足りない人――あいのエピソードを探したいと思ったけれども見当たらない。
<『國文学 宮沢賢治』(昭和53年2月号、學灯社)より> 

さて、どっちが〝べん〟でどちらが〝とく〟になぞられたかはあまり詮索はしないが、たしかにこの二人はそのように揶揄されたかもしれないと苦笑いしたくなる。
 この「べんととく」について八重樫が「花巻・人と町のプロフィール」の中で語っている。これも例えば『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)に載っていることなので知ってはいたが、この際このゴシップとの関連もあるので少し一部を抜き出してみる。
 そこでは、以下のようにまず〝メツコハツコ〟のエピソードが、それに引き続いて「べんととく」について語られている。
 …その子供達は學校に入れて貰ひましたが、なんでも非情に頭脳のよい子だとかで、評判でした。そして誰も乞食の子と云つて、それを卑しむ様なことはありませんでした。町の人々はよく裁ちきれや、古い着物を與へて、メツコハツコを可愛がりました。女の人々は安産にあやかりたかつたでせうね。
 それからと瓣といふ白痴がをりました。私は二人のことをやはり『新岩手人』に書いたことがあります。と瓣はとても仲良しで、は女性的で、瓣は男性的(と云ふのもおかしいですが)で、はお人好しで、瓣は一寸コスイところがありました。は大變お人好しで、そして孝行でした。その父親が生きてゐる間は、必ず杖を父親に渡し、その先をが持つて、合力で歩きました。その親が死んだ時、は立派なお墓を立てた相です。
 その當時チンドンヤなんてありませんでしたが、二人は實にチンドンヤの名コンビでした。活動寫眞のヂンタの先にが道化た服を着て、ニコニコして旗を持って歩くと、瓣は得意の能瓣で、廣告のビラを配つて歩くのです。それは實に微笑ましい光景でした。瓣はとても記憶力がよくて、町の電話番號を一から終わりまで、暗記してをりました。
  …(略)…
 町の人々はび氏を心から悼みました。そして眞面目に盛大な葬儀を行ったのです。花巻の人はこんな一面を持つてをります。

<『宮澤賢治研究4』(草野心平編輯)27p~> 
今はどうか知らないが、少なくともかつての花巻はそのような大らかさがあったということなのだろう。一方では当時、日本最大級のレジャーランド〝花巻温泉〟を創ったという気概と進取の気風があったのにもかかわらず、である。 

 その他に気になったことは、巻末に草野心平が
  「宮澤賢治全集」は豫定の三巻全部文圃堂から出版されました。
と述べていることである。ということは、この『宮澤賢治研究4』は昭和10年11月1日となっているから、この時点で既に
  『宮澤賢治全集』(文圃堂版)全三巻は出版を完了していた
ということになるようだ。 

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