みちのくの山野草

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2699 「宮沢賢治の思い出」(高橋正亮)

2012-06-08 08:00:00 | 賢治関連
高橋正亮の証言
 『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)の中に高橋正亮(まさすけ)の「宮沢賢治の思い出」が「びわの実学校」第93号から転載されていた。その一部は次のようなものであった。
 学校で私のとなりの席に、伊藤君という生徒がいました。彼は毎日遅刻してしょんぼりはいってきます。生徒から遅刻の理由を聞かれると、いつもご飯がおそくて、とだけしかこたえませんでした。…(略)…あまり話をすることの少ない少年でした。…(略)…そのうちに彼は土曜日の夜はたのしいとはなしました。近所の宮沢先生の家へ、子どもたちがあつまって、先生から童話を読んできかせられたり、セロやオルガンを弾くのを、そしてレコードなどをきくのだといいます。月曜日はいつも土曜日の夜のことをはなし、私をうらやませました。彼は私にも来いというのですが、町はずれの暗い夜道をいく勇気はありませんでした。そして、とうとう彼と相談して、昼いくことにしました。まだいくらか残雪がのこっているころだったような気がします。
 彼に案内されて家のなかにはいると、黒板のある部屋で農閑期を利用してあつまったお百姓たちが、賢治さんから農業の講習をうけているところでした。伊藤君が私をうながして二階へいきました。そこは子どもたちが土曜の夜いつもあつまるところのようでした。ちいさいオルガン、小さい蓄音機、棚の上のたくさんのレコード、そのそばの壁のところには本がならべられていました。
 気がついてみると、毎日遅刻してしょんぼりといつもだまっている、私とおなじように成績がわるくていつもしかられてばかりいる生徒でなしに、明るくいきいきとふるまう彼の姿でした。
 でたらめにオルガンをならすのにあきると、今度は棚のうえのレコードをひきだしました。学校でこんなことをしたら、おおきいこえで先生にしかられるにうきまっています。私は心配になって、そんなことをしても大丈夫かというと、宮沢先生はどんなことをしても、おこったりしかったりしないとこたえます。…(略)…
 私もいつか蓄音機のゼンマイまきをし、彼は竹針をカッターできり、いくども聞いたようでした。
 そのうち、お百姓たちがかえったのでしょう。賢治さんが二階へのぼってきました。わたしはしかられるとおもい、びくびくしながらおじぎしました。しかし賢治さんはわらいながら、「おもしろかったか。」とそんなことをいったような気がします。
<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)63pより>
この証言については今まで一度も吟味したことがなかったので今後少しく心に留めておきたい。
 そこで、幾つか気になることを抜き出して箇条書きにしてみたい。
(1) 下根桜の子どもたちは土曜日の夜に賢治のところに集まって、賢治から童話を読んで聞かせられたり、セロやオルガンの演奏、レコードなどを聴かされたりしていた。
(2) 残雪が残っている頃、高橋正亮もそこへ行った。
(3) そのとき、賢治は黒板のある1階の部屋で農閑期を利用して集まった農民達に農業の講義をしていた。
(4) 伊藤少年や高橋少年は二階へ上がって行きレコードを聴いた。二階には小さいオルガンや小さい蓄音機、棚の上には沢山のレコードがあり、そのそばの壁のところには本が並べられていた。
(5) その蓄音機はゼンマイ式であった。
オルガンの置き場所
 一方、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料編』(筑摩、189p)によれば
【羅須地人協会建物平面図】

ということだから、オルガンは一階と二階にそれぞれ一台ずつあるようにもとれる、しかし、賢治が下根子桜時代にオルガンを二台持っていたという話は聞いたことがないし、常識的に考えておそらく一台であろう。ではオルガンは二階にあったか一階にあったか。おそらく、この高橋の証言(4)に基づけばそれは二階にあったであろう。
 さらに、このオルガンの置き場所に関する証言はこの他に次のような2つもある。
① 清六の証言
 白系ロシア人のパン屋が、花巻にきたことがあります。私がそのパン屋に、「レコードを聞くことが好きか」と聞きました。たいへん好きだとの答えでした。そこで私は、よい所へ連れてゆくといった、兄の所へいっしょにゆきました。兄はそのとき、二階にいました。二階の、窓から顔を出した兄へ、「おもしろいお客さんを連れてきた」といいましたら、兄は「ホウ」と、喜んで、私とロシア人は二階に上ってゆきました。
 二階には先客がひとりおりました。その先客は、Tさんという婦人の客でした。そこで四人で、レコードを聞きました。リムスキー・コルサコフや、チャイコフスキーの曲をかけますと、ロシア人は、「おお、国の人――」
と、とても感動しました。レコードが終わると、Tさんがオルガンをひいて、ロシア人はハミングで賛美歌を歌いました。メロデーとオルガンがよく合うその不思議な調べを兄と私は、じっと聞いていました。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>
② 松田甚次郎の証言
 …花巻町を離れたある松林の二階建ての御宅、門をたゝいたら直に先生は見えられて親しい弟子を迎ふる様ななつかしい面持ちで早速二階に通された。
 明るい日射の二階、床の間にぎつしり並むでる書籍、そこに立てられて居るセロ等がたまらない波を立てゝ私共の心に打ち寄せて来る。東の窓からは遠く流れてる北上川が光って見えてる。ガラスを透して射し込む陽光はオゾンが見える様に透徹して明るいのである。
 先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀になつたりして農民劇の御話しや村の人々のお話し等を親しくなされてから十一時半頃に二階を下りられて、しばらく上がつて來られなかつたが、十二時一寸過ぎに、野菜スープの料理を持参せられて、食事をすゝめられた。
<「宮澤先生と私」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店))より>
①は高瀬露が下根子桜出入りした頃(少なくとも大正15年秋~昭和2年夏の間)のことであり、②は昭和2年3月8日のことである。そして二人ともオルガンは二階にあったと言っていることになろう。
 一方、この高橋正亮の証言からは
 残雪が残っている頃、高橋正亮が下根子桜を訪れた際に、二階には小さいオルガンが置いてあった。……③
ということが言える。
 したがって、これら3人の証言によれば下根子桜時代にオルガンは二階に置かれてあったということになりそうである。まして、③についてはいつの〝残雪が残っている頃〟かというと、少なくとも昭和3年には賢治はこのような活動からは撤退していたはずだから、昭和2年の雪が残っている頃となろう。すなわちこれらの3つの証言はほぼ同時期のものであり、
   高瀬露が賢治の許に出入りしていた頃、オルガンは二階に置いてあった。
と断言してほぼ間違いなさそうである。
慶吾の証言の信憑性
 よって、例の〝ライスカレー事件〟はこの頃の出来事な訳だが、この事件に関して高橋慶吾は
 ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、先生は、私はたべる資格はありませんから、私にかまはずあなた方がたべて下さい、と決して御自身は食べないものだから女の人は随分失望した様子だつた。そして女は遂に怒つって下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。
『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版、昭和18年)
と証言しているが、本当にこのとき露は一階で「オルガンをブーブー鳴らした」のだろうか。
 先の三人の証言からは、当時オルガンは二階に置いてあったとしか考えられない。はたして、慶吾の証言どおり露は「遂に怒つって下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした」というのだろうか。オルガンは一階にではなくて二階にあったようだから、どうも慶吾の証言はその信憑性が懸念される。 

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