みちのくの山野草

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3016 中舘武左衛門宛書簡(〔昭8〕・7・30?

2012-11-27 08:00:00 | 賢治渉猟
 『新校本宮澤賢治全集別巻(補遺篇)』(筑摩書房)を見ていたならば、その口絵の中に次のような新発見?の書簡があった。
【241a中舘武左衛門あて書簡(〔昭8〕・7・30)】

これを見てびっくりした。それは日付が〝〔昭8〕・7・30〟、つまり昭和8年7月30日となっていたからである。この前年、昭和7年の中館武左衛門あて書簡下書があることは知っていたがまさか昭和8年の書簡もあったとはそれまで知らなかったからである。
 そこでこれを文字に起こすと
  中館武左ェ門様        七月三十日
お手紙ありがたく拝誦いたしました。ご労働のご様子ですが、どうかご無理をなさらぬやうねがひます。ご昇天は何時でもおできでせうから。ご来訪を期されるお方があるとのお言葉ですが、ご承知の通りのひどい外道であなたの様に石からも鳥からも道を得られる方ならばともかく、まづ大低(ママ)の所はご失望と軽べつに終られるのが例ですからなにとぞ齢(ママ)くださらぬやうよろしくお伝へねがひあげます。
暑曇連日 稲熱続発 諸君激昂 迂生強奔 近状如件御座候
まづはご健康を祈りあげます。
                       宮沢賢治
となる。私が持っている賢治のイメージとは異なる印象を受ける〝ご昇天は何時でもおできでせうから。〟などというような皮肉をこめた書き方をしていることを知り、昭和7年の中館武左衛門あて書簡下書の書き方と酷似していると思った。そこでその場合から類推して〝ご来訪を期されるお方〟とは高瀬露のことかなと思った次第である。

 ところが、同書の27pを見たならば同書簡は
   241a 〔昭和年〕七月三十日 中舘武左衛門 あて 封書〔封筒ナシ〕
となっていた。一体全体、この書簡は昭和3年のものなのだろうか、それとも昭和8年のものなのだろうか?

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