みちのくの山野草

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3183 賢治昭和3年の病気(#6)

2013-04-05 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治から愛される賢治に》
 では今回は、物書きの中で一番このことを知っていそうなもう一人の人物森荘已池の著書からである。
『宮澤賢治』の場合
 …昭和三年八月のある日、外を歩いてゐるうちに、ひどい夕立にあつて、ずぶぬれとなつてかへり、かぜをひいて、たかい熱を出しました。そして豐澤町のお家にかへつて寝こみました。
 その年の十二月の寒い晩に、寒くて寒くてひと晩ねむられず、とうとう肺炎になつてしまひました。はあはあと、ひどくくるしい、むしの息でありながら、お醫者さんが來ますと、にこやかにむかへたといふことです。このときの病氣は、すつかりつかれたところへ肺炎になつたので、とてもたすからないと思はれました。
               <『宮澤賢治』(森荘已池著、小学館、昭和18年)202pより>
同書の発行は昭和18年1月30日であり、この時点では既に佐藤隆房著『宮澤賢治』が昭和17年9月8日に発行されているし、その内容からいっても森荘已池の記載内容は佐藤隆房の前掲書を基にしていると判断できる。そこには、目新しい記載内容はない。
『宮沢賢治の肖像』の場合
 こちらは、昭和49年の出版だが森がそれまでに著した著作の多くを編んでいると、森自身が「あとがき」で記している著作である。
 ところが、私が見落としたのだろうか、「賢治昭和3年の病気」そのものの記述はそれらの著作のどこにもなく、それに関しての記載が「昭和六年七月7日の日記」の中にかろうじて見つかっただけだった。それは例の「レプラ詐病」事件を受けての次のような記述であった。
 「私はレプラです」
という虚構の宣言などは、まったく子供っぽいことにしか見えなかった。彼女は、その虚構の告白にかえって歓喜した。やがては彼を看病することによって、彼の全部を所有することができるのだ。喜びでなくてなんであろう。恐ろしいことを言ったものだ。
 しかしながら以上のような事件は、昭和三年に自然に終末を告げた。
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、帰宅して父母のもとに病臥す。」という年譜が、それを物語っている。
              <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)169pより>
 意外なことに、私が見逃したせいなのだろうか、これ以外には『宮沢賢治の肖像』の中からは何一つ見つからなかった。それも、そこにあった「八月、…父母のもとに病臥す」はあくまでも当時の年譜をそのまま引用しているに過ぎない
知らない訳はない
 どうして、「賢治昭和3年の病気」に関しては、関登久也の著書の場合には佐藤隆房著『宮澤賢治』からの焼き直しであり、森荘已池のそれの場合も同様であり自分の見方を殆ど語っていないのだろうか。私はこれが不思議でならない。
 それから、
 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で羅須地人協会を訪れる。いくら呼んでも返事がない…その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった。
というエピソード<*1>を関登久也や森荘已池が知らない訳がないのだがこのエピソードについてすらこの両者ともに一切言及していない。これもかなり不思議である。
 また、そもそもこの二人、関と森はその当時賢治が豊沢町に戻って病臥していることを知らない訳はない。それなにの賢治の許に見舞に行ったりしなかったのだろうか。その当時は阿部晁でさえも二回は見舞っている<*2>と推測できるのに、である。
 そういえば、藤原嘉藤治はどうだったのだろうか。嘉藤治は武雄を案内して桜を訪れた際に賢治は不在だったというから、気掛かりだったであろう。当時の武雄は東京在住(武雄は大正14年上京して図画の教師をしていた)だったがその武雄が「その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった」というくらいだから、その頃花巻在住だった嘉藤治ならば、賢治が豊沢町に戻ったということは容易に知ることができたであろう。当然見舞にも行ったであろう。
実はアンタッチャブルだった?
 こうやってあれこれ考えてみると、関や森は「賢治昭和3年の病気」についての情報は少なからず知っていたであろうし、知ろうとすればかなりのことを知り得たはずだ。ところが、彼らの著作からはそのようなことは微塵も窺えない。〝形〟としては関と森は「賢治昭和3年の病気」に関しては取材も論考も積極的にはしていないという〝形〟になっている。
 これは、私からすれば極めて奇妙に感じるし、変な疑いを抱いてしまうことを禁じ得ない。もしかすると
 「賢治昭和3年の病気」の件に関して触れることは実はアンタッチャブルであった。
のではなかろうか、という。そしてそれは、賢治の病気が当時恐れられていた「肺結核」ゆえにではなくて、それ以上に恐れられていた「思想」の持ち主であると思われる虞があったからである。
 言い方を換えれば次のような可能性が大である。
 賢治は病気のためにやむを得ず実家に戻ったわけではなくて、その真の理由は「陸軍特別大演習」を前にして行われた官憲の厳しい「アカ狩り」から逃れるためであったから、それに触れることはアンタッチャブルであった。

<*1註> このエピソードはかなり早い時点で知られていた。ちなみにそれは『宮澤賢治追悼』(草野心平編、次郎社、昭和9年)所収の菊池武雄著「賢治さんを思ひ出す」の中で既に語られていたことである。
<*2註> 『阿部晁「家政日誌」において
【昭和三年】
○九月二二日
[往来・往]宮沢政次郎氏
[贈答・進]宮沢賢治君病気見舞トシテ牛乳三升(根子切手)
○一一月一二日
[文書・着]宮沢政次郎氏ヨリ金員在中書状
[備考]中根子実行組合外五組合ヨリ令息賢治君見舞トシテ進呈セル金子宮政氏ヨリ謝絶
        <『宮澤賢治研究Annual Vo.15』2005(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)168pより>
とある。

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