みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

『本統の賢治と本当の露』読者へのお応え⑵

2019-11-26 08:00:00 | 鈴木守著作
〈『本統の賢治と本当の露』の表紙〉

 過日、ある読者(Aさん)から拙著『本統の賢治と本当の露』に対する感想やご質問等を頂いた。
 そこで、その内容の一部と、それに対する私の応えを以下に引き続き報告させて頂く。
【質問2】
P25 「上京」について
 あの入沢康夫氏が、全面的に評価されているようですので……
 私は、どんぶりかんじょう人間ですので、あまり細かすぎて、ちょっとちらくらしてしまいました。

は、拙著の「㈡「羅須地人協会時代」の上京について」という節<*1>に関しての感想である。

 そこでこの節の要旨をまず述べれば、賢治研究家の誰一人として今までに論じていないことだが、私は次のような事柄、

 いわゆる『新校本年譜』の大正15年12月2日の項には、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた(*65)。
             〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)325p〉
と記載されていて、賢治がこのような上京をした霙の降る寒い日は「大正15年12月2日」であったというのが定説となっている。
 ところが、この〝*65〟の註釈について同年譜は、
関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
と、その変更の根拠も明示せずに、「……ものと見られる」とか「……のことと改めることになっている」と、まるで思考停止したかの如き、あるいは他人事のような註釈をしていたので私は吃驚した。
 そこで次に、その〝関『随聞』二一五頁〟を実際に確認してみると、
 沢里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(筆者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までお見送りしたのは私一人でした。…(投稿者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。 
             〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉
となっていて、私は今度は愕然とした。
 それはまず、本来の武治の証言は「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」だったのだが、故意か過失かは判らぬが、同年譜の引用文では「少なくとも三か月は滞在する」の部分が綺麗さっぱりと抜け落ちていたからである。その上、この武治の証言の中で、「賢治が武治一人に見送られながらチェロを持って上京した日」が「大正15年12月2日」であったということも、「大正15年12月」であったということも、「大正15年」であったということも、「12月」であったことさえも、何一つ語られていなかったからである。
 その挙げ句、「先生は三か月間……帰郷なさいました」というところの「三か月間の滞京」を同年譜の大正15年12月2日以降に当て嵌めようとしても、下表

             〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版)29p〉
から明らかなように、それができないという致命的欠陥があるからである。そしてこの致命的欠陥は次のことを逆に教えてくれる。典拠となっている「ものと見られる」というところの、〝関『随聞』二一五頁〟自体が実は同年譜の「大正15年12月2日」の記載内容の反例になっているということ、それゆえこの記載内容の少なくとも一部は事実と言えないということ、延いては典拠が危ういということをである。
 一方で、武治の証言通りにこの「三か月間の滞京」を『新校本年譜』の昭和2年11月~同3年2月の間に当て嵌めようとようとすれば、下表

から明らかなように、すんなりと当て嵌められる「三か月間」の空白があることが直ぐ判る。したがって、まさにこの〝関『随聞』二一五頁〟が、
〈仮説2〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェロを猛勉強していたが病気となり、三ヶ月後の昭和3年1月頃に帰花した。
が定立できるということを否応なく教えてくれている。
 そしてその一方で、この澤里武治の証言の初出は『續 宮澤賢治素描』(昭和23年)所収のものだが、それを用いずに昭和年45年発行の関『随聞』(精確には関登久也著『賢治随聞』角川書店)所収のものを用いているのである。典拠としてどの段階のものを使うのかといえば、学問の世界では、それはもちろん「初出」を使うというのが常識のはずだがそれを使わずに、である。しかも、この2書の間に公にされた、
    「宮澤賢治物語」(昭和31年2月22、23日『岩手日報』掲載)
   と
   『宮沢賢治物語』(岩手日報社、昭和32年)
所収の澤里武治の証言があるのにも拘わらずである。さらには、あろうことか、後者所収の澤里武治の証言は改竄までなされていた<*2>のであった。

ということを明らかにしたというものである。

 そして私はこの〈仮説2〉を検証できた。またそれに伴って、
・大正15年12月2日:〔柳原、〕澤里に見送られながら上京(この時に「セロを持ち」という保証はない)。
・昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治は言い残し、澤里一人に見送られながらチェロを持って上京。
・昭和3年1月頃:約三ヶ月間滞京しながらチェロを猛勉強したがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身軆衰弱。
ということになる。そこで私は、このような新たな真実が明らかになったので、現「賢治年譜」はその修訂が迫られているということを、『本統の賢治と本当の露』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版)にて報告したのである。
 それは、この節の私の主張、いわば「賢治の昭和二年上京説」は、拙ブログ『みちのくの山野草』においてかつて投稿した「賢治の10回目の上京の可能性」に当たるのだが、
 その投稿の最終回において入沢康夫氏から
祝 完結 (入沢康夫)2012-02-07 09:08:09「賢治の十回目の上京の可能性」に関するシリーズの完結をお慶び申します。「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します。
というコメントを頂いた。しかもご自身のツイッター上で、
入沢康夫 2012年2月6日
「みちのくの山野草」http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku というブログで「賢治の10回目の上京の可能性」という、40回余にわたって展開された論考が完結しました。価値ある新説だと思いますので、諸賢のご検討を期待しております。
とツイートしていることも偶々私は知った。そこで私は、同氏からこの〈仮説2〉に、そしておのずから、チェロ猛勉強のための「賢治の昭和二年上京説」に強力な支持を得ているものと認識している。
             〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版)42p~〉
から、私としては自信を持ってであった。

 そこでAさんは「あの入沢康夫氏が、全面的に評価されているようですので……」と言っていることになるのであろう。
 また同じく「ちょっとちらくらしてしまいました」という感想も尤もである。私もこの件に関して証言の改竄などあるはずがないと思っていたからである。そしてそれがあざとく行われていたからである。

 という次第で、私はAさんに対して次のように応えた。
⇒この「上京」があったとしても、今すぐに賢治にとって大変なことが起こるわけではないとは思いますが、典拠としているものを賢治研究家が恣意的に使っているということは少なくとも許されないのだ、ということを私は主張したかったのです。それは、研究家として悖るもっとも恥ずべき行為だからです。

 ただし、初めてお便りを頂いた方にはあまりにも刺激的すぎるかなと判断して、Aさんには「証言の改竄」ということまでは今回は言及しなかった。

<*1:註>

<*2:註> 詳しくは、『本統の賢治と本当の露』の30p~37pをご覧頂きたい。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

 本書は、「仮説検証型研究」という手法によって、「羅須地人協会時代」を中心にして、この約10年間をかけて研究し続けてきたことをまとめたものである。そして本書出版の主な狙いは次の二つである。
 1 創られた賢治ではなくて本統(本当)の賢治を、もうそろそろ私たちの手に取り戻すこと。
 例えば、賢治は「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」し「寒サノ夏ニオロオロ歩ケナカッタ」ことを実証できた。だからこそ、賢治はそのようなことを悔い、「サウイフモノニワタシハナリタイ」と手帳に書いたのだと言える。

 2 高瀬露に着せられた濡れ衣を少しでも晴らすこと。
 賢治がいろいろと助けてもらった女性・高瀬露が、客観的な根拠もなしに〈悪女〉の濡れ衣を着せられているということを実証できた。そこで、その理不尽な実態を読者に知ってもらうこと(賢治もまたそれをひたすら願っているはずだ)によって露の濡れ衣を晴らし、尊厳を回復したい。


〈はじめに〉




 ………………………(省略)………………………………

〈おわりに〉





〈資料一〉 「羅須地人協会時代」の花巻の天候(稲作期間)   143
〈資料二〉 賢治に関連して新たにわかったこと   146
〈資料三〉 あまり世に知られていない証言等   152
《註》   159
《参考図書等》   168
《さくいん》   175

 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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