みちのくの山野草

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2019 賢治と嘉藤治と

2011-02-22 09:00:00 | 賢治関連
                     《↑藤原嘉藤治(昭和2年頃撮影)》
                   <『賢治と嘉藤治』(佐藤泰平編著、洋々社)より>

 では、今回も昭和2年の8月以降のその年内の年譜
夏頃から〔推定〕高瀬露しばしば来訪。
10月頃  石田興平を宮澤家から花巻病院へ案内、下根子桜にも案内。
11月   藤原嘉藤治と小野キコの結婚式参列。
11月1日~3日 東北菊花展出品、審査、菊の句の短冊を書き入賞者に与える。

を見てみる。
 不思議なことにこの間の年譜からはいかにも「宮澤賢治」らしいものはあまり見えてこない気がする。

 では、この当時賢治は詩の創作に専心していたということなのだろうか。ならば、『校本』の年譜からそれらを拾ってみよう。
9/16 一〇九二 藤根禁酒会へ贈る
9月  華麗樹種品評会

なんと吃驚、この期間に創作されて詩はこれらしかなかったのではなかろうか。

 となると、この時期は冬期間でもないから肥料設計や肥料相談は殆どなかったであろうから、賢治の主な活動は稲作指導が殆どであったのであろうか。
 ならば、8月20日にはあれだけ一気に稲作指導の喜びと苦悩の詩をを詠んだのに、この期間のそのような詩どころか、それ以外の詩でさえもこの2篇しか見当たらないのはなぜなのだろうか。
 8月頃は熱心に稲作指導もしたし、気力も充実していてそのことを詩に詠ったのだが、天候不順な昭和2年ゆえ稲作指導に駆けずり回って疲労困憊してしまい、次第に詩を詠む気力も萎えていったのであろうか。

 一方、次のエピソードからはこの時期のあっけらかんな賢治が眼に浮かぶ。
 それは年譜の中にある藤原嘉藤治の結婚にまつわることであり、この件に関しては森荘已池の『宮沢賢治の肖像』の中に「四 座談会・賢治素描」という章があり、次のようなことを書いている。
藤原 東京に、ロシアのオペラが来ていたときの話です。二人でそれを見に行こうではないか、ということになりました。私の教え子の一人が前沢町にいて、その生徒が東京に勉強にゆきたいというので、その相談にゆき、そして東京に足をのばして、オペラをみようと思ったのです。停車場にきてみましたら、二人とも東京往復の旅費を持っておりません。時計を売って行こうかといいましたが、やめることにしてスゴスゴと喪家の狗のように花巻から(?=投稿者)帰ってきました。「残念会をしよう」と、どっちからともなくいい出しました。そこでレストラン精養軒
《参考:精養軒》

          <『賢治の広場』の掲示写真より>

に入ったのです。花巻には珍しい洋食を食べさせるレストランです。私たちの席に出てきた女給をみて、私が何気なく、「この人、ぼくの好きなタイプの女性だ」といいました。そしたら、宮沢さんが「好きなら結婚しろ、ここでハッキリ返事しろ」というのですね。…(略)…「えがべ、もろうべ(よい、結婚しよう)」と返事をしました。宮沢さんは、たちまちのうちに、まもない日曜日に、弘前の彼女の家までいってくれました。話は、とんとんとまとまってしまいました。…(略)
白藤 はじめ宮沢さんは、青天井の下川原で結婚式をやろうなどといっていましたが、たぶんお父さんやお母さんにとめられたのでしょうか、盛岡の私のところで式をあげました。式の万端、花婿花嫁、親戚の者などの坐る位置や扇の果てまで、宮沢さんが、さいはいをふって、ちゃんと滞りなくすませました。
藤原 宮沢さんは、結婚式の費用として、七十円出せといいました。私には持ち合わせがないので、例の芳文堂の親父から借りました。白藤さんの家は、その頃盛岡の油町という町にありましたが、そこで式をあげました。盛岡駅でも汽車の中でも、宮沢さんは知人がおりますと、この人は藤原君の新夫人です。こんごよろしくと、紹介しましたし、桜の住宅の近くでも、こんど結婚しましたからよろしくと、紹介して歩きました。そのため、誰もうんともすんとも言いませんでした。
羽田 堀籠さんの結婚式に、私も参っておりましたが、いろいろ話しをしているうちに、宮沢さんが、ひょっといったのですがね。「世間の人は、みんな私を童貞だと思っていますよ、ハハハハ」と。私は、じつは、このときの宮沢さんの言葉が、いまでも疑問につつまれていて、解らないのです。

     <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>
<投稿者註:藤原=藤原嘉藤治、白藤=白藤慈秀、羽田=羽田正>
いかにも宮澤賢治らしい直情径行さがここには彷彿としている。
 
 それにしても、下根子桜に移住した当初の目論見もはかなく潰え、この頃にせいぜい残っているものは「肥料相談所」の看板と、近隣の農家への稲作指導だけ?。しかも、天候不順等のためにその結果があまりはかばかしくなかった昭和2年である。そのような時期の賢治の心理状態と、嘉藤治との弥次喜多コンビ振りを比べてみるとその落差があまりにも大きすぎる気がする。

 なお、ここで新たに気になったのが、羽田の証言するところの
   「ハハハハ」
である。

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