みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「東北砕石工場」嘱託契約成立

2014-06-17 09:00:00 | 東北砕石工場技師時代
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 佐藤通雅氏はこの宮澤賢治の嘱託契約に関して次のように、
 契約をつめて行く過程で、仙台出張所の件は消えて花巻出張所になった。二月十七日または十八日には「嘱託状」が送られ、二十一日には東藏が来花して契約書が交換される。東北砕石工場花巻出張所はこうして正式に開設されることになった。
            <『宮澤賢治 東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)121pより>
と見ている。賢治はたしかに仙台への未練があったのだが、おそらく父政次郎の冷静な判断とアドバイスに従わざるを得なかったのであろう。それはあの例の五百円もの大金の出資も伴っていたことを考えれば容易に察しがつく。

出資金五百円
 ちなみに当該の契約項目は
 一、信証金トシテ宮沢ヨリ一時金五百円ヲ鈴木ニ預ケ置クモノトス 此ノ預金ニ対シテハ日歩金参銭ヲ支払フコト 但シ石灰ノ需要激増ニヨリ生産ノ増加ヲ計ル都合上資金ノ増額ヲ要スル場合ハ金壱千円迄預クルコトアルベシ 尚将来解約等ノ場合ハ元利返済スルモノトスル
              <『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)263p>
となっているから、父政次郎は鈴木東藏に「信証金トシテ一時金五百円」を貸したということが確認できる。しかもそれは「日歩金参銭」であったこともわかる。「日歩」とは100円に対して1日当たりの金利のことだから、日歩3銭は年利11.0%ということになる(365×0.03円=10.95円)。それほど高利でないとも思うが、かといって父政次郎にとってはそれほど不利となる低利でもなかろう。
 ところで、当時の五百円がどれほどのものかは想像が難しいが、岩瀬彰氏によれば「新婚ならば月五十円でも十分」<『「月給百円」サラリーマン―戦前日本の「平和」な生活』(岩瀬彰著、講談社)44pより>ということだし、当時月給百円はサラリーマンのあこがれの額であったということのようだ。ちなみに花巻農学校の賢治の月給は百円前後だから、かなりの高給取りであったと言えるが、その約5倍の金額であった。また、賢治が農学校を辞めるにあたってもらった「一時恩給」(退職金)が五百二十円であったと判断できるから、これで大金五百円の大体のイメージはできる。
 また一方で、以前“賢治の肥料相談・設計の考察(続き)”で言及したことだが、当時は
 1927(昭和2)年から始まった昭和金融恐慌により当時の日本は慢性的な不況が続いていた。そこへもってきて、1929年にウォール街で起こった株価大暴落による世界恐慌の荒波が日本にも襲いかかった。
というような時代であり、五百円もの出資は鈴木東藏にとってはこの上なく有り難かったに違いない。

嘱託契約
 では賢治は鈴木東藏とどんな嘱託契約を交わしたのであろうか。このことについては同契約書に
 二、宮沢ヲ技師トシテ嘱託シ報酬トシテ年六百円ヲ炭酸石灰ヲ以テ支払フモノトス 但シ本年度ニ限リ金五百円トス右ニ対シ宮沢ハ左ノ職分ヲ行フモノトス
  イ、説明書並広告文ノ起草
  ロ、炭酸石灰ニ関スル調査並ニ改良
  ハ、照会回答
              <『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)263p>
と書かれているということから知ることができる。あくまでもその職分として明文化されているのはイ~ハの三つであった。
 しかしここで私はあることを今まで誤解をしていたということに初めて気付く。それは今まではそう思っていなかったのだが、賢治の職分の中に、実は炭酸石灰そのものの販売に当たるなどということは一言も書かれていなかったということにだ。さりながら、報酬は炭酸石灰(五十円/月に相当)ということになり、花巻農学校勤務時代の収入と比べればおおよそその半分の月給ということになるが、大不況であったその頃に50円もの報酬を得ることができたということはありがたいことではあるのだが、問題は現物支給された炭酸石灰を賢治が捌くことができなければ現金収入は全く得られないという現実的な厳しさがもともとあったことになる。
 これで、たしかにこの契約内容は実質的には
    賢治は東北砕石工場花巻出張所を開設する
というものであったということを私はすんなりと理解できた。おのずから、この職分についての契約の仕方こそがその後の賢治を猛烈なセールスマンにさせたとも言えなくもない、ということに私は気付かされる。

 続きへ
前へ 

『東北砕石工場技師時代』の目次”に戻る。

みちのくの山野草”のトップに戻る。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 4012 薬師岳(6/15、#2)  | トップ | 「東北砕石工場技師」宮澤賢... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

東北砕石工場技師時代」カテゴリの最新記事