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「東北砕石工場技師」になる前の賢治

2014-06-15 09:00:00 | 東北砕石工場技師時代
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
「東北砕石工場技師」になる前の書簡
 さて、『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)の中の103p以降には“三 東北砕石工場技師宮澤賢治誕生”という項があり、そこでは賢治書簡のいくつかを引用しながらその経緯を説明している。その中で特に気になった次の各書簡を、『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)で私も確認してみた。
・昭和5年11月18日付菊池信一宛書簡
お手紙ありがたく拝誦いたしました。
あなたのご様子は弟からも聴き上等兵の候補者にもなってゐられるさうで実に安心いたしました。どうかもう一息ですから、おからだを気を付けてまた勢よく帰って来て村の為にお働きください。私もお蔭で一二度小さな風邪を引いたきり弟の留守も無事にすまし、この冬さへ越せばもう元の通り何をしてもいゝと医者も云ってゐます。たぶんは四月からは釜石へ水産製造の仕事へ雇はれて行くか例の石灰岩抹工場へ東磐井郡へ出るかも知れません。それも全く健康にさへなれぱどんなことをまた考へ出すか自分でも見当がつきません。こちらも雪です。例年より寒いやうです。米はとれても廉くてみんな困ってゐるやうです。また書きます。
・昭和5年12月7日付澤里武治宛書簡
すっかり冬になりました。そちらも雪でせう。お変りはありませんか。この夏はおうちの方へ手紙あげたりしてゐました。お兄さんとは遊園地でダリヤや菊の会のあったとき二度もお目にかゝり写真をとって貰ったりしました。その節伺ひましたら、あなた、いつかのお話のところへご入籍なすったさうでまことにお芽出たう存じます。学校の方も引き続いてうまくやっておいででせうな。あなたの村へはわたくしの遠縁にあたる女の人が醤油屋だかへ嫁いってゐます。この頃帰ったのでそちらの模様もきかうと思ってゐて遂会ひませんでしたが、じつにいろいろ伺ひたいことばかりです。わたくしすっかりよくなって今までの埋め合せに弟の店へ手伝ってゐます。十月は弟が招集だったのですっかりその代理をし通しました。来年の三月釜石か仙台かのどちらかへ出ます。わたくしはいっそ東京と思ふのですがどうもうちであぶながって仕方ないのです。レコードほしかったら送ります。左のうちです。遠慮なく云ってくれませんか。ベートンベン、第五、第六、第九、第一ピアノ司伴楽、ストラウス死と浄化。
  まづは。
・昭和6年1月12日付鈴木東藏宛書簡
拝啓 貴簡拝誦 原稿一応校正御送附申上候へ共若し新に印刷に附せらるゝならば今少しく効果的なる条項をも加へ度存候間折り返し御返事願上候 昨年の広告亦同様に有之候 私方にても文案は準備致し置候間御来花を待って取捨仕度とも存候 次に小生二月廿日より仙台にて仕事致すことと相成貴工場の宣伝販売等地方を劃して分担致しても宜敷之亦御考慮置願上候             敬具
・昭和6年1月15日付澤里武治宛書簡
お手紙拝見しました。徴兵検査早く結果がわかればいゝと思ひます。その節行きでも帰りでも花巻駅前で二時間ぐらゐの時間都合できませんか。できるやうでしたら予定をたてゝ知らせてよこして下さい。実は私は釜石行きはやめて三月から東磐井郡松川の東北砕石工場の仕事をすることになりました。月の半分は仙台へ出てゐて勉強もできるのですが、収入は丁度あなたぐらゐでせう。悪い風邪が流行ってゐますからこの前お話した「わかもと」呑むこと、オキシフル(過酸化水素)の十倍から三十倍ぐらゐのもので一日数回うがひすること怠らずなすって下さい。盛岡へ出るときなど尚更です。  まづは。
             <いずれも『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>

下根子桜でやったようなことはもはや考えていなかった
 したがって、昭和5年末~昭和6年始め頃の賢治は爾後の自分の進路について、
・昭和5年11月18日付菊池信一宛書簡
たぶんは四月からは釜石へ水産製造の仕事へ雇はれて行くか例の石灰岩抹工場へ東磐井郡へ出るかも知れません。
・昭和5年12月7日付澤里武治宛書簡
来年の三月釜石か仙台かのどちらかへ出ます。わたくしはいっそ東京と思ふのですが
・昭和6年1月12日付鈴木東藏宛書簡
二月廿日より仙台にて仕事致すことと相成
・昭和6年1月15日付澤里武治宛書簡
釜石行きはやめて三月から東磐井郡松川の東北砕石工場の仕事をすることになりました。月の半分は仙台へ出てゐて勉強もできる
というように考えをめぐらしていたと言えよう。
 つまり、
  賢治は、
 昭和6年の3~4月頃からは釜石か東磐井かはたまた仙台にて仕事に就く。
 またその仕事は
   釜石:水産関連
   東磐井:東北砕石工場
   仙台:東北砕石工場代理店
などと考えあぐねたが、昭和6年1月12日、「2月20日から」と日にちを区切って仙台にて仕事をすることとしたと鈴木東藏に伝えことが呼び水となって鈴木から東北砕石工場の代理店を任されたと推測され、それを受ける決意を賢治はしたと言えよう。一時は東京に出ることさえも考えていた賢治ではあったがそれは諦めた。とはいえ、東北砕石工場の仕事をしながら、月の半分は仙台に出て行って勉強もする、ということも目論んでいた。
というようにして決心したであろうことが一連の書簡に従えば窺える。
 したがって、私とすればとても残念なことになるのだが
 この頃の賢治はかつて下根子桜でやったようなことをもう一度やってみようなどということはもはや微塵も考えていなかった。
と判断せざるを得ない。また一方では、
 あれだけ嫌っていた商売をやると賢治は決意した。
ということになりそうだ。

もう一つの裏付け
 そういえば、約半年も以前の昭和5年4月4日付高橋武治(澤里武治)宛書簡に賢治は、
もう私も一日起きてゐて、またぞろ苗床をいぢり出したりしてゐますから、どうかご安心下さい。こんどはけれども半人前しかない百姓<*>でもありませんから、思ひ切って新らしい方面へ活路を拓きたいと思ひます。期して待って下さい。
とか
   もう一度新らしい進路を開いて幾分でもみなさんのご厚意に酬いたいとばかり考へます。
              『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)
としたためていたことを思い出した。この書簡も「下根子桜でやったようなことはもはや考えていなかった」ということを裏付けてくれている。賢治がこれからやろうとしていることは「新しい方面」などと表現しているからだ。
 もちろんこの書簡からは、実はもっと早い時点でもう既に相当の決意を持って賢治は「下根子桜でやったようなことはもはや考えていなかった」ということも読み取れる。なぜならば、同一書簡にこのように二箇所に同じような内容の
  ・思ひ切って新らしい方面へ活路を拓きたい
  ・もう一度新らしい進路を開いて

という文言を並べて駄目押ししているということから、この時点でもうすでに相当固い決意をもっていたと判断できるからだ。

<*:註>
 なおこの書簡によれば、昭和5年4月4日時点で賢治は、下根子桜時代の自分のことを振り返って「半人前しかない百姓」と自己評価していることなることにも注意しておきたい。なぜならば、この自己評価はあの昭和5年3月10日付伊藤忠一宛書簡にしたためた全否定的な自己評価
   殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもの
と時期的にも内容的にも結構符合しているからである。

 
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