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309 賢治の肥料相談・設計の考察(続き)

       《↑『十五年戦争の開幕』(江口 圭一著、小学館)》

 では今回は前回の続きで、残りの3つの場合について考察してみたい。

2.不作・凶作の場合
 賢治の肥料設計に基づいて金肥を施肥したはいいが、気候不順や自然災害等で不作・凶作になったならばどうなるか。もちろん水稲の収量は減少・激減して当然収入は減る。不作・凶作だったからといって春先に借金して買った肥料代は安くなるわけではない。なまじ金肥を使ったばっかりに却って肥料代がかかって収入がさらに減ったり、借金がさらに嵩んだりということが起こってしまう。
 因みに、大正13年~昭和9年の岩手県の反当りの米収高を『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)で調べてみると
・大正13年 反当 1.961石 (この年稗貫地方は旱魃) 
・大正14年 反当 2.125石 (この年豊作、ただしこの年稗貫地方は旱魃)
・大正15年 反当 1.761石 (この年旱害、水害多し。紫波・稗貫地方大干魃)
・昭和 2年 反当 1.934石 
・昭和 3年 反当 1.97石 (この夏、旱魃40日以上に及び、陸稲、野菜類殆んど全滅、9月14日に至りようやく降雨)
・昭和 4年 反当 1.811石 (この年、旱魃、不作)
・昭和 5年 反当 2.05石 (豊作) 
・昭和 6年 反当 1.649石 (この年、冷害による凶作)
・昭和 7年 反当 1.836石
・昭和 8年 反当 2.219石 (豊作)
・昭和 9年 反当  ?   (冷害で凶作)
というわけで、まさしく昭和初頭はそのようなことがしばしば起こりえた可能性がある。実際、大正15年、昭和4年、昭和6年および昭和9年などは岩手県は不作・凶作であった。
 しかも、小作の農家の場合は不作だったからといって、地主が大幅に小作料を減らしてくれたとは思えない(したがって、そんなときはおそらく小作争議も増えて行ったに違いない)。金肥を使っての増収狙いは、不作・凶作の場合には却ってそうでない場合よりも傷手は深いことになるのではなかろうか。

3.不況の場合
 金肥を使用すればもっともっと米が穫れると言われ、肥料屋さんからは代金は米が穫れてからでいいと言われて金肥を購入した農家もあったであろう。そのような農家は、その金肥を施肥することによる秋のたわわな稲田を夢見、豊作を予想するはず。いよいよ秋、金肥を使用したので前年より幾ばくかの増収があったとしよう。されど、不況の場合そのような農家にはどんな現象が起こるのだろうか。
 1927(昭和2)年から始まった昭和金融恐慌により当時の日本は慢性的な不況が続いていた。そこへもってきて、1929年にウォール街で起こった株価大暴落による世界恐慌の荒波が日本にも襲いかかった。そこでその対策として行った1930(昭和5)年1月の金解禁ではあるが、皮肉なことに実質的には円の切り上げとなって輸出は激減してしまい、同3月には株式市場が暴落して生糸・農産物等の価格は急落したという。
 当時の日本の農村には米と繭の生産で成り立っていた農家が多かったから、アメリカへの生糸輸出激減と米価の暴落というダブルパンチで日本の農村は大きな打撃を受けることになってしまった。そこへ輪をかけたのが朝鮮からの米の大量輸入。これでは農家は堪ったものではない。〝宮澤賢治の肥料相談・設計の検証〟で掲載した《4 表3:米一俵(60㎏)当たりの米価(抜粋)》のように米価は急激に年々下落していった。
 したがって、金肥を使用したので前年より幾ばくかの増収があったとしても、秋になって春先より米価が急落していたのでは元も子もない。なまじ金肥を使ったがためにその出費が嵩んでしまい、かえって金肥を使わなかった場合よりも赤字が多くなってしまったということもあり得る。そのようなことを小作農家は危惧したとも考えられるのではなかろうか。

4.豊作の場合
 以前〝「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その14)〟で触れたように
 賢治にとって大きな打撃だったのは、一九三〇年の豊作です。大不況の中での豊作で、米価は値下がり、一九三一年の春頃は、豊作飢饉の様相になっていた。あの頃は、米はまったく自由販売で、米の仲買人が買い付ける。場合によっては、収穫を当てにした買い付けの予約制で金を借り、農民は一粒でも多くとろうと金肥を買う。金をかけても、凶作だと借金だけが残る。しかし、夢に見た豊作でも、この不況の中で米が値下がりして、農村が窮乏する<*1>。
     <三上満の『「農民」記事データベース20031013-606-12』より>
という。私にはとても想像出来ない『豊作飢饉』というものが現実に昭和5年に起こっていたのである。
 このように豊作だった昭和5年、金肥を使って以前より水稲の収量が大幅に増加したにしても『豊作飢饉』によって米価が急落していったのでは、前の〝3 不況の場合〟と同様な論理で、却って金肥を購入しなかった場合の方が赤字幅が少なくて済んだということもあり得る。

 以上4つの場合について考察して来たが、賢治の肥料設計がいかに優れていたとしても当時の時代背景に思いをめぐらすと、
 小作農家などの零細な農家にはとっては賢治の肥料設計をそのまま受け入れることはそれほど容易なものではなかった
のも宜なるかなと思う。

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 まして、これらの4つの場合が複合して零細な農家を襲ってきたならばどうなるかと考えると末恐ろしい。
 そして、実際その懸念は現実のものとなり、〝「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その13)〟で述べたように、4つの場合が複合して当時襲いかかって来たのだった。

 一部再掲すると、農村の疲弊状態について江口 圭一氏は以下のように述べている。
    「農村の窮乏」 
 一九三〇年の空前の豊作飢饉で打撃を受けた農村は、三一年のいっそうの不況と窮乏に沈んだ。農産物価格の下落がつづき、農村需要品(工業製品)価格との差いわゆるシェーレがひろがった。下表(割愛)に示されているように、三〇年五月と三一年五月とを比較すると、農村需要品価格の下落が六七・四から五五・二へ、一八・一%であったのに対し、農産物価格のそれは六一・五から三九・四へ、三五・九%に及んでいる。その一方で、小作料や公租公課の負担は重く、しかも都会から失業者が帰農したから、農家はますます窮迫した。
    …(中略)…
 また東北・北海道方面は、この年、冷害によってまれに見る凶作に見舞われることになった。『社会政策時報』(三一年一一月)の宮城県農会の報告では、
  下層の貧農階級の惨状は街のルンペンにも似て亦悲惨である。……所謂五反百姓は小作料、肥料代を支払っても残る飯米は旧正月を過ぐる頃からすでに不足を告げる。三、四十銭の日傭稼ぎも思ふままにならず、成熟を待たで掘る馬鈴薯を囓る日が続くうちはよいが、それも喰ひつくしてしまった今日この頃は収穫期を目前にその貧窮は亦想像以上である。殊に仙北地方はひどく、七、八月頃まだ収穫予想もたしかめないうちからボツボツ青田売りを開始する惨状に陥って居る。
と、その一端を明らかにしている。

   <『十五年戦争の開幕』(江口 圭一著、小学館)より>
ということである。昭和6年の東北・北海道方面の実態は不況の上に・農産物価格の下落・凶冷のトリプルパンチに見舞われていたのだったのだ。そして、同著は次のようなことも述べている。
    「東北・北海道の飢饉」
 実際、農村の窮乏は一九三一年(昭和六)から三二年にかけてますます深刻となっていた。とくに三一年に冷害による未曾有の凶作に見舞われた東北・北海道は、同年末から三二年にかけて飢饉におちいった。飢餓人口は青森一五万人、岩手県三万人、秋田県一万〇〇〇人、北海道二五万人、形四五万人に達するとみられた。東北では粟・稗・楢や栃の実、豆腐粕、更にはわらびの根からとった澱粉に藁や馬鈴薯をまぜたものなどを、北海道では大根雑炊やはこべ、クローバーを混ぜた粥などを食べて、やっと飢えをしのいだ。石黒英彦岩手県知事は三二年七月一八日地方長官会議で「一日一食となる傾向あり。電燈灯は点ぜず。又役場吏員、学校職員等の給料不払い多し」と、県の事情を報告した。
 歩兵第三一連隊(弘前)に招集された岩手県出身兵のうち、身体が弱く勤務演習にたえず、七月一二日に帰郷を命ぜられた者が二一名を数え、軍当局を驚かせたが、その原因は凶作で食物が悪かったためとみられた。

 農民にとって喜ばしいかぎりであったはずの昭和5年の豊作が、なんと豊作故に豊作飢饉を引き起こし、続く昭和6年は世界恐慌の上に未曾有の凶冷、さらに翌7年に掛けて飢饉に陥っていったと江口氏はいう。農民は踏んだり蹴ったりの連続であったのだった。

 いくら賢治が身を磨り減らしながら農民のために献身したとしても、あまりにも当時の農民のおかれた状況は過酷であり、賢治にすれば徒労感は否めなかったはずである。
 この頃の賢治の心境をこのように慮れば、病臥しながらしたためたあの『雨ニモマケズ』はどのような性格のものであったのかがおのずと解ってくる気がする。あの大正15年の春頃に高らかに歌いあげた詩とはあまりにもかけ離れている。

<註*1> この構造はちょうど昨今の稲作農家にも当てはまる。以前と違って食管法はなくなってしまった今は米は自由販売の時代である。昭和の初め頃からは年々米価が下がっていったが、それは世界恐慌・昭和恐慌によるものでいまの農業の置かれた状況と酷似している。100年に一度の大不況下、みるみる米価は下がっている。肥料代の支払いと農機具の償却費を考えてみれば多くの稲作農家は割の合わない仕事をさせられているのである。

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