みちのくの山野草

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こよなく愛するあまり、負荷をかけすぎたのでは

2018-01-27 10:00:00 | 「賢治研究」の更なる発展のために
H29,11,24 20時~ BSプレミアム“英雄たちの選択”「本当の幸いを探して 教師・宮沢賢治 希望の教室」

 なぜ、“英雄たちの選択”シリーズなのかということはさて措き、番組はメインタイトルの「本当の幸いを探して」の話になってきた。どこまで核心に迫ってくれるのかと、興味津々だ。話し合いは次にように続いた。
高橋:賢治の作品の特徴っていくつもあるのでどれが一番ってことはないと思うんですけど、やっぱり自己犠牲的なものですね。特に、誰かが誰かを食べちゃうっていうの多いですよね。人間が熊を食べる。逆に熊が人間を食べるって。すごく残酷なんだけれども、でもこれが まあ生き物が持ってる性分なので、究極的に他者を受け入れるっていうことですね。食われてもオッケーっていうのは。これがまあまあ言ってみれば究極の寛容性みたいなものにつながる。それができる社会が、世界が本当の幸いなのかもしれないっていう狭い解釈が一つ。
 そうか、高橋氏は「食われてもオッケーっていう……それができる社会」が「世界が本当の幸いなのかもしれない」と捉えているわけか。ちょっと分かったようで分からないところもあるが、私は、高橋氏の「究極的に他者を受け入れるっていうことですね。食われてもオッケーっていうのは」という見方に特に惹かれた。この「食われてもオッケー」という一言に共鳴したからだ。もう少し具体的に説明すれば、童話『なめとこ山の熊』には、
 宿命とは、範疇を超えた物事が起こってしまうことであり、その宿命に甘んじず、より高次な生き方を目指せば、自分が崩壊してしまう危機を孕みます。小十郎と熊はその宿命を受け容れ命を全うしたが故に、最後は浄化され、大きな力の懐に包まれました。
             <『拝啓宮澤賢治さま 不安の中のあなたへ』(田下啓子著、渓流社)42p~>
ということで、「小十郎と熊はその宿命を受け容れ命を全うしたが故に」この両者は「知的に昇華された魂」を持つことができて、「最後は浄化され、大きな力の懐に包まれました」といえるということを、田下啓子の上掲書から学んでいた(爾後、この童話は賢治のそれの中で私の最も好きな作品の一つとなった)からであった。つまり、高橋氏の「食われてもオッケー」ということと、『なめとこ山の熊』の小十郎と熊の「昇華された」関係は同値だと私は直感したからだ。だから、高橋氏の、「それができる社会が、世界が本当の幸いなのかもしれない」という考え方に私はある程度は納得できた。

 さりながら、そのような社会を全ての生き物が皆等しく受け容れるかというと、それは不可能であろうということも殆ど確かなことだと「悟って」しまっている私がいる。いみじくも、高橋氏の「「じゃあお前本当の幸いって使ってみろ」って言われてもできないですよ。どんなに頑張っても」という弁明がそのことを雄弁に語っているのでは。それ故に、「「本当の幸い」って言葉使えないんですよ」と高橋氏が一方で言い切ってしまっていることも当然のことであろうと私には思える。言い換えれば、そのような「みんなの幸い」というものは、絵に描いた餅に過ぎず、そのような幸いはもともと自己撞着を内包しているのだということになりそうだ(そしてその原因は、どうやら「やっぱり自己犠牲的なものですね」にありそうだということに私は気付いた。「自己犠牲」の持つ欺瞞性と胡散臭さ、あるいは、「誰かが誰かを食べちゃうっていう」ことが「自己犠牲的なもの」だとする論理に、だ)。

 それは次に続く議論、
高橋: もう一つ。これはですね、これまた書き手として言わせてもらうと「本当の幸い」って言葉使えないんですよ。
渡邊:使えない?
高橋:これ使えますかって この言葉。これ使えない言葉なんですよね。つまり、難しすぎて。恥ずかしいというか。
磯田:だから 今芥川賞取るだの取らないだのというような作家のレベルだと「本当の幸い」なんか言ったらふんって笑われるだけで。絶対世の中に出てくるような文章体ではないんですよこれは。そこがやっぱ賢治の面白いところなんです。
高橋:これがしかもね、使えてるの。使えてる。この人のこの作品の中ではこれしかないっていうふうに。どうなってんだって感じです。つまりこの言葉を使えるっていうことがなぜなのかっていう。「じゃあお前本当の幸いって使ってみろ」って言われてもできないですよ。どんなに頑張っても、今の僕には。
からも言えそうだ。だから、ここで話し合われている「本当の幸い」は、もともと始めから矛盾を孕んでいるのだということを私は確信するだけだった。

 だから、「絶対世の中に出てくるような文章体ではないんですよこれは。そこがやっぱ賢治の面白いところなんです」とか「これがしかもね、使えてるの。使えてる。この人のこの作品の中ではこれしかないっていうふうに」と高く評価したり、断定したりすることは、賢治をこよなく愛しているが故に、知らず知らずのうちに賢治の発した言葉に負荷をかけすぎたのではないだろうか、という疑問と不安を私は抱き始めた。
 そして一方で、高橋氏でさえも「「じゃあお前本当の幸いって使ってみろ」って言われてもできないですよ。どんなに頑張っても、今の僕には」と言い、「今芥川賞取るだの取らないだのというような作家のレベルだと「本当の幸い」なんか言ったらふんって笑われるだけ」ということであれば、一般読者には「本当の幸い」を論ずることも理解することもできないと言っていることに等しいのかなと、私はしょぼくれてしまう。

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