《創られた賢治から愛すべき賢治に》
宮城県での営業活動では次に宮城県関係について少し考えてみる。『新校本年譜』によればそれは三回の出張があり、それぞれの概略は
<1回目>
4月18日:松川→仙台 県庁農務課
4月19日:県庁農務課(関口三郎技師<*1>と面談)→古川(県農事試験場、浦壁国雄<*2>)→小牛田(斉藤報恩農業館訪問?)
<2回目>
5月4日 :松川→仙台 県庁農務課
5月5日 :宮城郡農会→石巻広淵沼開墾地(高野一司<*3>、旧知)→小牛田(斉藤報恩農業館長工藤文太郎<*4>、旧知)
<3回目>
5月10日:小牛田(工藤文太郎)→仙台
5月11日:宮城県庁農務課→斉藤報恩会→宮城郡農会→岩沼→仙台
5月12日:小牛田肥料店→斉藤報恩農業館(工藤文太郎)→築館栗原郡農会
というものであった。4月18日:松川→仙台 県庁農務課
4月19日:県庁農務課(関口三郎技師<*1>と面談)→古川(県農事試験場、浦壁国雄<*2>)→小牛田(斉藤報恩農業館訪問?)
<2回目>
5月4日 :松川→仙台 県庁農務課
5月5日 :宮城郡農会→石巻広淵沼開墾地(高野一司<*3>、旧知)→小牛田(斉藤報恩農業館長工藤文太郎<*4>、旧知)
<3回目>
5月10日:小牛田(工藤文太郎)→仙台
5月11日:宮城県庁農務課→斉藤報恩会→宮城郡農会→岩沼→仙台
5月12日:小牛田肥料店→斉藤報恩農業館(工藤文太郎)→築館栗原郡農会
これらを見て、誰かがこの時代の賢治を「猛烈サラリーマン」に例えていたが、その見方は間違っているわけではないが、それよりは「猛烈セールスマン」かなと思った。それも、何も賢治だけが突出した「猛烈セールスマン」であったわけではなく、誰しもが賢治のような立場と環境におかれればそのように努力する程度の「猛烈セールスマン」であったのだと認識すべきだと確信した。賢治だけがそうであったわけではなくて、賢治もそうであったのだと。
賢治の「気負い」
そのことは、以前に掲げた「東北砕石工場技師時代の賢治の動向」一覧表を概観すればなおさらにである。時間的にはそれほどタイトだったとは思えないからである。この一覧表による限りは、昨今よくいわれている過労死が危惧されるような極限状態までは、少なくとも時間的には、当時の賢治は陥っていなかったであろうことが想像できるからである。
それより心配されることは、それまでの賢治には見られないような「気負い」が当時の賢治にはあったと思われることである。それは例えば、1931年4月13日付鈴木東藏宛書簡〔327〕
…(略)…
次に私事本日は気分漸く清快にて熱も退き候間両三日を経て宮城へ出張致すべくその節は朝工場へ御立寄の上色々御指示を得べく候 但し宮城県庁よりは可否共に未だに何等の通知無之候哉 今后の私の小案としては左の如くに御座候
一、岩手県にて約束の十数車を数次交渉して必ず獲得すること。
二、同未注文の分を特に刺戟し、並びに県購聯に単価を低くして(小生持ち)大量売込の運動
三、宮城県小牛田の県技師工藤文太郎氏を通じて農務課に改めて交渉のこと。(泣きを入れることを含む。)
四、同氏を通じて斉藤等の大地主に利害を説きて大量使用を勧むること
五、小牛田附近の白兵戦(組合)
六、県の諒解を得て一流肥料商に一二車宛送ること。
七、秋田県購聯に大量を持ち込む。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>次に私事本日は気分漸く清快にて熱も退き候間両三日を経て宮城へ出張致すべくその節は朝工場へ御立寄の上色々御指示を得べく候 但し宮城県庁よりは可否共に未だに何等の通知無之候哉 今后の私の小案としては左の如くに御座候
一、岩手県にて約束の十数車を数次交渉して必ず獲得すること。
二、同未注文の分を特に刺戟し、並びに県購聯に単価を低くして(小生持ち)大量売込の運動
三、宮城県小牛田の県技師工藤文太郎氏を通じて農務課に改めて交渉のこと。(泣きを入れることを含む。)
四、同氏を通じて斉藤等の大地主に利害を説きて大量使用を勧むること
五、小牛田附近の白兵戦(組合)
六、県の諒解を得て一流肥料商に一二車宛送ること。
七、秋田県購聯に大量を持ち込む。
の中にある賢治らしからぬ記述「(小生持ち)大量売込の運動 」「(泣きを入れることを含む。) 」「白兵戦」から、当時の賢治にはかなりの「気負い」があったことが読み取れるからである。
したがってその反動が賢治にもたらされなければいいのだが、とかく物事を長続きできないという性向のある賢治だから、早晩精神的にかなり追い込まれていくであろうことが容易に推察されて心配である。
あらたなるなやみのみち
それは、次のような伊藤良治氏の指摘からも懸念される。この一連の宮城出張に関して伊藤氏は、『宮澤賢治 東北砕石工場の人々』の中の「三 宮城県出張による賢治の商戦」の中で、病弱な賢治がかくのごとく奔走したので、5月16日~25日病臥静養しなければならなくなると述べている。さらには、続けて
四月一九日に関口技師との面談の折は、まだ時期が早いので注文がボチボチだった。ところがその半月も経たない五月三日には、工場は何をしているのだと出荷遅延の苦情、そして五月中旬には出荷催促におわれて昼夜ぶっ通しの多忙をきわめる作業が工場で続く。ところがそれから十日も経たない五月下旬には、もう需要期は終わりをつげる注文激減現象の到来となる。「先はいづれも甚面白からぬ御報のみながらいづれ陰陽は交代し晴雨は循環致すべく次便を御待ち奉願候」(書簡三四七)と連絡してくる始末である。
<『宮澤賢治 東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)144pより>とも述べているからである。いままでは炭酸石灰の営業に邁進してきたのだが、これからはまた別の新たな製品の販売活動をせねばならないことになる。それこそまさに、「あらたなるなやみのみちを得し」と言えるだろう。
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以下の註はいずれも佐藤通雅著『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』による。<*1> 関口三郎とは、群馬県出身だが、1927年盛岡高等農林卒の後輩である。5月11日の晩にわざわざ賢治の宿泊先まで訪ねている。
<*2> 浦壁国雄とは、山形県出身だが、1914年盛岡高等農林卒の先輩である。
<*3> 高野一司とは、国民高等学校の主事だったので旧知。
<*4> 工藤文太郎とは、賢治より七歳年長で紫波郡出身、盛岡高等農林の先輩。斉藤報恩農業館の初代館長。
<いずれも『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)148p~より>
したがって、宮城の場合は秋田の場合とは違って、賢治は今度はしっかりと(ちゃっかりと)「つて」を使ったのでその成果はあった。以前には、『何分にも技術上の問題は懇意とか何とかの情実で一点も左右されるべきでないことをしきりに申し』述べたときれい事を言っていたかつての賢治ではなくなっていたようで、そこには私から言わせれば《愛すべき賢治》であったことが垣間見えてくる。
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