みちのくの山野草

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2084 「羅須地人協会」のゴム印

2011-04-21 09:00:00 | 賢治関連
          《1↑『人と文学シリーズ 宮澤賢治』(島尾敏雄・真壁仁…、学研)》

 学研の『人と文学シリーズ 宮澤賢治』の中に賢治が教え子富手一に宛てた封筒の写真があった。
《2 「昭和2年4月9日付富手一あて書簡封筒」》

 この写真を見て「おっ!」と思った。というのは封筒の裏に『羅須地人協會 岩手縣稗貫郡下根子』のゴム印が押してあったからである。
 ここの説明文
 昭和2年4月9日、教え子富手一にあてた南斜花壇設計の手紙。書き損じの赤罫誌稿用紙を封筒に使っている。羅須地人協会のゴム印が珍しい。
にもあるようにたしかにとても珍しいはず。

 実は、下根子桜時代の「羅須地人協会」のことを調べれば調べるほどその実体から遠のいてしまっている自分がいて、この写真のこのゴム印を知って少しだけ近づけたかなと直感した。
 なにせ、賢治自身が書き残した資料の中にズバリ
   「羅須地人協会」
という名称が出てくるの見たのは、これまでは〝楽団解散〟で触れた「土壌要務一覧」の1頁目だけしかなかった。それ以外の「羅須地人協会」はせいぜい教え子たちなどの〝証言〟にすぎなかった。これでやっと賢治自身が残した資料の中に出てきた「羅須地人協会」の2例目を見ることが出来たことになった。

 また「おっ!」と思ったのは、菊池忠二氏が『私の賢治散歩』において次のように述ていたことを思い出したからでもある。
 宮澤賢治が自分で設立し、自らその主宰者であった羅須地人協会の名前を、手紙の住所欄に記載することは、当然のことであったかもしれない。しかし協会名を冒頭におき、住所をその下に記したゴム印をつくっていることは、この協会が、彼自身の農耕生活や農村活動の中心であり、ここを拠点にすべての活動が行われることを意味していたように思われる。
       <『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)より>
この言わんとしているところがいまひとつ解らなかったが、この写真を見て今までよりはその理解と菊池氏の認識にたして共感が増した。
 つまり、賢治にとっての「羅須地人協会」とは生活と活動の〝拠点〟であった、と私も認識すればいいのだと思った。

 こう認識すれば以前〝”定期の集まり”案内状(T15/11/22付)〟で触れた案内通知の中の次の項
 二、就て、定期の集りを、十二月一日の午后一時から四時まで、協会で開きます。
の中の場所を示す〝協会〟は「羅須地人協会」のことであるとすんなり理解できる。そして、「羅須地人協会」とは「拠点となる宮澤家の別荘そのもの」を意味するのであり、そこで行われる活動や組織のことではないのだと認識すればいいとも思った。
 一般に「協会」とは〝ある目的のために会員が協力して設立・維持する会(『広辞苑』より)〟だと思うが、賢治はその意味では使っておらず菊池氏の言うとおり〝拠点〟の意味で使っていたのだ、と理解すればいいのだと私は得心した。

 それは、この富手一宛の手紙が〝「羅須地人協会」の活動の一端〟のためにしたためられたものではなくて、あくまでも賢治と富手との個人的・私的な書簡であることからも言えることになると思う。花巻温泉の南斜花壇の設計を下根子桜に集った教え子たちなどが組織的に請け負ったことはないはずだから、この書簡は〝会〟が出したものではなく、〝会〟(=〝下根子桜の別荘〟)から出したという意味でのゴム印の使い方であり、菊池氏の言うとおり「羅須地人協会」は拠点を意味するのだと。

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