みちのくの山野草

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3564 「一本足」論争(経過報告1)

2013-10-14 08:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
発端
 約1ヶ月ほど前でしょうか、当ブログに「H(投稿者註:実際はこの時点では姓のみの漢字表記だったのだがしばし仮名のHとする)」と名乗られる方から賢治に関する私の論考(「賢治昭和二年の上京」等)に対してコメントをいただいたので、その後メールにて私的に互いにこのことに関して議論して参りました(一度直接お会いすることも出来て意見も多少交換した)。
 しかし、どうも「ためにする議論」に陥る懸念が生じてきたので冷却期間をおく必要があると判断し、少し時間をおいてからお望みとあれば再開いたしましょうと私が持ちかけ、H氏からも了解をいただいた。
 ところがこの件に関して、その直後に今度はH氏自身が開設しておられるブログ『MSS(仮名)』に取り上げていることをたまたま知った。
 そこでは、ありがたいことに
 鈴木さんの「賢治昭和2年上京説」は、なかなかはっきりとは否定しにくいというのが現状のようです。
と認めていただいたのだが、その上で、
 ただ私としては、次に述べるようなことから、やはりこの仮説は成立しにくいのではないかと、考えているところです。
 さて、鈴木さんの『羅須地人協会の真実』という本は、…(略)…この沢里武治の(訂正前の)証言をほぼ唯一の根拠として、全体が「一本足で」立っている形なので、こうなるとその存立はやや危うい感じもしてきます。
というご批判をいただいていたので、私も公的媒体上でこう問われた以上それに応えなければならないと思って、H氏との間の論争を止むを得ず再開した。
 そもそも、賢治の教え子、それも最愛の愛弟子澤里武治と柳原昌悦の証言を互いに補完させながら立てた(H氏の表現を借りれば「二本足で」立つ)私の仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………♣
に対してH氏自身、その反例となるものがなく『鈴木さんの「賢治昭和2年上京説」は、なかなかはっきりとは否定しにくいというのが現状のようです』とそこでは言ってくれている。とすれば、それはその仮説「♣」は検証に耐えたのだから、その仮説は取り敢えずは妥当性があるということをH氏自身が認めてくれたことになる。
 ところがその上でH氏は、「一本足」で立っているから「やや危うい」と仰る。私の仮説を崩せるものはその反例であり、それしかないはずである。そして、その反例が1つでもあればその仮説はいともたやすく崩せる。それなのに、その反例ではなくて、「一本足」なるものをH氏が持ち出すのは何の意図があるのだろうか…。
経過
 このことにまつわる、H氏のブログブログ『MSS(仮名)』のコメント欄を通じて行った、私とH氏との間に交わされた論争の経過を以下に報告して参ります。
*****************<(1)↓投稿者鈴木守/2013年10月 4日 20:18>******************
MSS 様
 今晩は。その節は大変お世話になりました。
 この度は、身に余るお褒めの言葉を頂きまして恐縮しております。
 さて、今回の件につきましては暫く時間を措こうと思っておりました。なんとなく「ためにする議論」に陥りそうな危惧があったからです。
 でも、折角ですから少しだけお話をさせていただきます。
 先ずそもそも私は、大正15年12月2日の定説に疑問を抱いているので、あくまでも、それをどうすれば合理的に解消できるかというスタンスで臨んでいます。

 さて、この定説の典拠はおそらく「澤里武治」の証言だと思いますが、その使い方に問題があるのではなかろうかと私は思ったのです。
 MSSさんにおかれましては、この件に関しましてどのようにお考えになっておられますか?
 できましたならば、まずは、その典拠が何であるかを教えていただけないでしょうか。
*****************<(2)↓投稿者H氏/2013年10月 4日 22:16>********************
鈴木 守 様
花巻では、大変お世話になりました。重ね重ね、感謝申し上げます。
またこのたびは、早速にコメントをいただきましてありがとうございます。

さて、「大正15年12月2日上京」という現在の定説の典拠ですが、私の理解するところでは、賢治による父政次郎あて書簡220が、その最も重要なものと思います。
この書簡は、まず最初に「お蔭で出京もいたし」とあり、上京して間もない最初の書簡であることを示唆していますが、さらに「小林様へも夕刻参り」「夕食を御馳走になり」とあって、夕食よりも後、すなわち夜に書かれたものと解するのが自然です。
そしてその消印が「神田 15・12・4 前8ー9」とあることから(『新校本全集』第15巻校異篇p.122)、この書簡が神田局に回収されたのは大正15年12月4日の朝、したがってここから逆算して、賢治が書いたのが12月3日夜、花巻を発ったのは12月2日、という風に推定されたものと思います。

鈴木さんもご著書で引用しておられるとおり、沢里武治は当時の「宮沢賢治年譜」を見て自分の記憶を修正したわけですから、沢里の証言以外にその「年譜」の根拠となっていた資料が当然あったはずで、それが上記の「書簡220」なのだと思います。
*****************<(3)↓投稿者鈴木守/2013年10月 5日 06:11>******************
MSS 様
 お早うございます。
 早速のご回答有り難うございます。
 ところで、私の質問の仕方が不備だったようですね、済みませんでした。
 私がお訊ねした「大正15年12月2日の定説」とは、「新校本年譜」にあるような

 一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。

と私は認識しておりましたし、そこにはこのこと以外のことは記載されておりません。
 この記載内容の典拠が何であるとお考えになっていらっしゃるのかを教えていただけないでしょうか、という意味でした。
 どうぞよろしくお願いいたします。
********************<(4)↓投稿者H氏/2013年10月 5日 19:27>*******************
なるほど、『新校本全集』年譜篇の「十二月二日」の項に記載されている「内容」の典拠は何か、というご質問だったのですね。

これは、今さら鈴木さんに対しては「釈迦に説法」で恐縮ですが、『新校本全集』年譜篇p.326の注*65に、「関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる」とありますので、(旧『校本全集』の)この箇所の記述部分は、関登久也『賢治随聞』が典拠になっていると、『新校本全集』編集委員は考えたということでしょうね。
(ただ私としては、ここは関登久也『宮沢賢治物語』が典拠であると見なした方が、後に触れる「改めることになっている」などという記載を挿入しなくてもよくなるので、妥当ではないかと思っています。)

なお、たまたま昨日お答えした内容にも書きましたとおり、上記の『新校本全集』の記載において、「十二月二日」という日付に関しては、沢里もどこにも述べていないことであり、その典拠は賢治の父あて書簡220にあるのでしょう。

ちなみに、『新校本全集』の注*65には、上の部分に続けて、「ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」という記述があって、ここは鈴木さんが疑問を呈しておられるところですね。
しかし、この証言における賢治上京の時期を、「昭和二年十一月ころ」から「大正一五年」に「改め」たのは、新旧校本全集の編集委員が独自の判断で行ったことではなく、その編集のかなり以前に証言者である沢里武治本人が行ったことであり、さらに沢里は晩年になっても「大正一五年」と話していたということは、念のため確認しておきたいと思います。
*****************<(5)↓投稿者鈴木守/2013年10月 6日 14:57>*******************
MSS様
 ご回答有り難うございます。
 さてそうしますと、『随聞』にせよ『宮沢賢治物語』にせよその典拠はいずれも澤里武治の証言(それぞれ「沢里武治氏聞書」、「セロ沢里武治氏から聞いた話」)ということになります。
 さすれば、「新校本年譜」の大正15年12月2日の記述内容は澤里の証言を典拠にしているのですから、当事者はこの澤里の証言を尊重せねばなりません。証言のつまみ食いなどしようものなら、牽強付会だとの誹りを免れ得ないからです。
 さてその尊重すべき澤里の証言には、それぞれ
 前者:少なくとも三ヶ月は滞京する、…(略)…先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
 後者:少なくとも三ヵ月は滞京する。…(略)…先生は予定の三ヶ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
ということもあります。
 したがって、「賢治はその際三ヶ月弱滞京した」ということも尊重されねばなりません。
 ところが奇妙なことに、この「三ヵ月弱の滞京」について「新校本年譜」は一切言及しておりません。形としては無視しております。
 しかしこのことは無視できません。なぜならば、「新校本年譜」が澤里の先の証言を基にしている以上、賢治は3ヶ月弱の滞京をしていたということも当事者は受け入れなければなりません。ところがそうすると、この「三ヶ月」が「十二月二日」の現定説に自家撞着をもたらします。
 それはなぜかというと、賢治は大正15年12月2日から3ヶ月弱の滞京をしていたとなるわけですから、少なくとも昭和2年の1月は花巻に不在となります。こうなると、昭和2年1月の現「宮澤賢治年譜」はとんでもない矛盾を抱え、ほぼ破綻してしまいます。
 そこで私は、その矛盾を解決したいがために拙書『羅須地人協会の真実― 賢治昭和二年の上京 ―』をあえて世に問うたのです。
 つきましては、MSSさんにおかれましてはこの「三ヶ月」の矛盾のことをどう思われ、それをどのようにして解消できるとお考えでしょうか、是非教えていただけないでしょうか。
 そうすればお互い同じ土俵に上がることができて、実りある議論がスタートできると思っております。

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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