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第三章 仮説の検証(Ⅰ)(テキスト形式)

2024-03-22 08:00:00 | 賢治昭和二年の上京
☆ 『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』(テキスト形式タイプ)
第三章 仮説の検証(Ⅰ)

 さて、通説からすれば全く荒唐無稽なことだと嗤われることは十分承知の上で仮説「♣」を立ててみた訳だが、ここからはその検証を始める。

1 「新校本年譜」による検証
 実は、私がこの仮説「♣」を立てた裏には、以前から「新校本年譜」等の昭和2年の12月前後の記載事項の少なさ、出した書簡の少なさ、詠んだ詩の少なさが気になっていたこともある。一体賢治はこの頃何をしていたのだろうかと疑問に思っていたからだ。他に何かをやっていたのではなかろうかと、単純に想像していたのである。
 昭和2年の12月前後の賢治
 ちなみに、「新校本年譜」の昭和2年12月において記載事項がある日は2日しかなく、それも
・12/21 盛岡中学の校友誌に賢治の詩が載った。
・12/26 「新潟新聞」に「詩集展」の出品者の一人として名     前が載った。
というだけの内容である。その日に「詩が載った」ということはその日に「詩を詠んだ」ということではないのだから、そこからは賢治の同年12月中の営為が具体的に見えてくるようなものは何一つない。「新校本年譜」による限りこの頃の生身の賢治は年譜から完全に蒸発していると言ってもよさそうだ。
 ならば書簡に関してはどうだろうか。前年の大正15年であれば12月の書簡は多かったはずだから、昭和2年についてもその月のそれを見てみれば何か判るかもしれない。そう思って、書簡集である『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)をひもといてみた。すると昭和2年に賢治が出した書簡は極めて少ないことがわかるし、なんと昭和2年12月付のものは全く載っていないことも知ることができる。残念ながら何ら目新しい情報は得られなかった。ついでに同書簡集をもう少し調べてみたならば、この当時の書簡数は少なくて、例えば昭和2年5月~昭和3年春頃までに賢治が出したものは
・昭和2年7月19日付 福井規矩三宛て
・ 〃 10月21日付 「ご不用レコードを交換ねがひます」という意味の書面
の2通だけであった。まさかこれほどまでに少ないとは…。
 では当時の賢治は詩や童話の創作に没頭していたのであろうか。そのことを「新校本年譜」によって調べてみたならば前記の「盛岡中学の校友誌に賢治の詩が載った」こと以外の記載はない。結局この頃に賢治が詠んだ詩があるとは「新校本年譜」には書かれていない。また、童話などの創作があったということも同様それには記載されていない。となれば、賢治はこの当時創作に没頭していたとも言えなさそうだ。
 それでは、賢治は「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」は農業の指導等でてんてこ舞いだったのだろうか…。これが、もし大正15年~昭和2年の農閑期のことであったならば賢治は羅須地人協会の活動のために多忙であったからまさしくそうであったであろう。しかし「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」に賢治はそのような協会の活動はもうしなくなっていたはずだから、そのためにこの期間が忙しかったということもないはずだ。
 あるいはまた、昭和3年の3月頃ならばその頃の賢治は石鳥谷塚の根肥料相談所で行っていた肥料設計のために極めて多忙だったはずだが、「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」にそのようなことが行われたという証言も記録もないはずである。つまるところ、「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」に賢治が肥料設計で極めて忙しかったという明らかな証言や資料等はなさそうである。
 よって、「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」の賢治は書簡は出していなかったし、詩も詠んでいなかった、童話も書いていなかったようだし、かといって肥料設計等の農業指導をやっていた訳でもなさそうである。
 透明な存在の賢治
 さて、どう考えても、少なくとも「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」の賢治の営為は見えてこない。不思議だ。そこでもう一度「新校本年譜」を見直して、「下根子桜時代」のうちの「昭和2年9月~昭和3年2月」の年譜を表にしてみた。それらが以下の【表1】~【表3】である。
 そこからは、ものの見事に「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間が全く空白であることが一目瞭然である。しかし待てよ、「下根子桜時代」のこの季節というのもはもともとそのような程度の活動だったのかもしれない。
 ならばと、一年前の同じ頃の賢治の営為はどうであったのであろうか、同様の表を作ってみた。それらが【表4】~【表5】であり、「下根子桜時代」の「大正15年11月~昭和2年2月」の賢治の営為が見えてくるはずである。
 そしてこれらの両者を比較してみると、一年前の表からは同期間の賢治の活発な活動振りが見えてくるので、逆にますます「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」の3ヶ月余の空白が際立ってしまう。どう考えても、少なくとも「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」の賢治は全く透明な存在になってる。一体賢治は何を考え何をやっていたのだろうか。
 このことは逆から見れば、「宮澤賢治は昭和2年11月頃から昭和3年1月までの約3ヶ月間滞京」していたということは時間軸上からすれば十分にあり得ることになる。この空白にそれをちょうどすぽっと当て嵌めることができるからである。
 最初は、荒唐無稽なことだと嗤われる思っていたが、もしか
すると仮説「♣」は案外検証に耐え得るかもしれない。
 とまれ、「新校本年譜」によって仮説「♣」が直接検証できた訳ではもちろんないが、少なくとも「新校本年譜」はこの仮説の
【表1 昭和2年9月~10月の宮澤賢治】

【表2 昭和2年11月~12月の宮澤賢治】

【表3 昭和3年1月~2月の宮澤賢治】

【表4 大正15年11月~12月の宮澤賢治】

【表5 昭和2年1月~2月の宮澤賢治】

反例とはほぼならないであろうということを知ったことは、私にとってはとても大きな最初の一歩だった。

2 証言等による検証
 ではここでは、仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。               ………………♣
に関連しそうな証言が述べられているものの幾つかをまずリストアップしてみる(一部は既に触れたものもあるが)。
(1)「沢里武治氏聞書」(『賢治随聞』所収)
(2)「三日でセロを覺えようとした人」
(3) 座談会「宮澤賢治先生を語る會」(『宮澤賢治素描』所収)
(4) 柳原昌悦の証言
(5)『宮澤賢治日記(昭和2年版)』
(6) 盛岡気象台の記録
(7) 伊藤清の証言
(8)『詩人時代』編集部あて書簡
(9) レコード交換会
(10) 宮澤清六編「宮澤賢治年譜」
もちろんこれら以外にも関連する証言等はあるのだが、長くなるのでまずはこれらの10項目によって検証してゆきたい。
 なお、実際には検証というよりはそれらの証言が仮説「♣」の反例となることはないか、ということを調べることの方が多くなろうかと思う。そして、そのうちの一つでも反例が現れるとこの仮説は成り立たなくなるから私はそこですごすごと撤退するということになる。
 では各項目毎に、順に検討してゆきたい。
 (1) 「沢里武治氏聞書」
 これは以前に既に一部引用したものだが、次のようなことが述べられている。
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待っておりましたが、先生は「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」とせっかくそう申されたましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかった、また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかからぬよう、指は直角にもってゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
 この澤里の証言を読めば、直ぐに仮説「♣」が妥当であることが分かるが、もともとこの仮説はこの証言を基にして立てた仮説であるとも言えるから当然のことである。それゆえ、ここではこの証言のポイントを確認することに留めておきたい。
 賢治はある時チェロを持って上京したが、そのことに関する澤里のいくつかの証言である。
(ア) その上京は昭和2年11月頃だった。
(イ) 賢治は「少なくとも三か月は滞在する」とも言った。
(ウ) その際見送ったのは澤里ただ一人だった。
(エ) その日はびしょびしょみぞれの降る寒い日だった。
(オ) 賢治はこの3ヶ月間のはげしい勉強で、とうとう病気になって帰郷した。
 もちろん、これらの全項目は仮説「♣」の反例とはなってお
らず、その証左となっている。
 (2) 「三日でセロを覺えようとした人」
 これは『昭和文学全集 月報第十四號』に載っている大津三郎の追想であり、それは次のようなものである。
   「三日でセロを覺えようとした人」
 それは大正十五年の秋か、翌昭和二年の春浅い頃だつたか、私の記憶ははつきりしない。…(中略)…
 ある日、歸り際に塚本氏に呼びとめられて「三日間でセロの手ほどきをして貰いたいと言う人が來ているが、どの先生もとても出來ない相談だと言つて、とりあつてくれない。岩手縣の農學校の先生とかで、とても眞面目そうな靑年ですがね。無理なことだと言つても中々熱心で、しまいには楽器の持ち方だけでもよいと言うのですよ。何とか三日間だけ見てあげて下さいよ。」と口説かれた。…(中略)…
 神田あたりに宿をとつていた彼は、約束通りの時間に荏原郡調布村まで來るのは仲々の努力だつたようだが、三日共遅刻せずにやつて來た。八時半に練習を終つて私の家の朝食を一緒にたべて、同じ電車で有楽町まで出て別れる。…これが三日つづいた。
 第一日には楽器の部分名稱、各弦の音名、調子の合わせ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階、第三日にはウエルナー教則本第一巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、歸宅してからの自習の目やすにした。ずい分亂暴な教え方だが、三日と限つての授業で他に良い思案も出なかつた。
 三日目には、それでも三十分早くやめてたつた三日間の師弟ではあつたが、お別れの茶話會をやつた。その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立つたか、と訊ねたら、「エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…」とのことだつた。
<『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)5pより>
 つまり、大津から受けた「三日間のチェロの特訓」に関しては
(a) 大津三郎が賢治にセロを教えた時期は大正15年の秋か昭和2年の春浅い頃のいずれかの可能性が高い。
(b) 賢治は楽器の持ち方だけでもよいから教えてほしいとい う意味のことを言った。
(c) 賢治に教えた内容は楽器の各部の名稱、各弦の音名、調 子の合わせ方、ボーイング、音階などである。
(d) 賢治はチェロを習おうと思った訳を、詩の朗誦伴奏に「オルガンよりセロの方がよいように思います」と語った。
ということなどを大津三郎は証言していることになる。
 ではこれらの証言は仮説「♣」の反例となり得るか。幸いそのようなものはほぼないと言っていいだろう。この大津の「三日間のチェロの特訓」は昭和2年ではなくてその前年、大正15年12月に上京した際のものと考えられるから、(a)は反例とまではならないであろうからである。そしてそもそも、その時期が
大正15年の秋であるとすれば「通説○現」の12月とずれてしまう
が、それは「通説○現」の反例となることはあっても、仮説「♣」
とは無関係なことである。
 とまれ、ここまでの段階では仮説「♣」は成り立ち得るし、
(b)、(c)、(d)については後程考察のために使いたい。
 (3) 座談会「宮澤賢治先生を語る會」
 關登久也著『續 宮澤賢治素描』に所収されている座談会「宮澤賢治先生を語る會」に、次のような証言がある。
K 先生のご病氣は昭和二年の秋ごろから惡くなつたと思ふが――。
M よく記憶にないが東京へ行つてからだと思ふ。東京でエス語、セロ、オルガンなど練習されたといふ話だつた。
<『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版)254pより>
なお、ここで「K」とは高橋慶吾のことで、「M」とは伊藤克己であることが同じく関登久也の著書『賢治随聞』(角川選書、昭和45年)で後ほど明らかにされている。
 したがって、
・賢治の病気は昭和2年の秋頃から悪くなったと思うと高橋慶吾は証言している。
・賢治の病気が悪くなったのは東京へ行ってからだと思うし、その際賢治は東京でエスペラント、セロ、オルガンなどを練習したという話だった、ということを伊藤克己は証言している。
ことになる。そして、同書にはこの座談会は「日時 昭和十年頃」と付記されているから、賢治が没してからあまり時が経っていない時期の座談会であり、これらの証言はそれほど昔のこととは言えない。また「下根子桜時代」から数えても10年ほどしか経っていない時期の複数の人による座談会だから、これらの証言はかなり真実を伝えているに違いない。
 ではこれらの証言は仮説「♣」の反例となり得るかというと、
もちろんそのようなものではない。逆にこれらの証言からは、慶吾は自信なげに言っているが、一方の伊藤克己はそれをうち消しながら言っていることから
・賢治は東京へ行ってから病気が悪くなった。
という可能性が大であることが示唆されるから、仮説「♣」の
傍証になり得る。
 ただし、これが昭和2年の上京のことだけを述べているとなると、「エス語、セロ、オルガンなど練習された」という伊藤の証言中の「エスペラント、オルガンの練習」が気になるところではある。昭和2年の際に賢治はエスペラントやオルガンの練習をしたとは思えないからである。
 (4) 柳原昌悦の証言
 これは今まで何度か取り上げたものであり、菊池忠二氏がかつて柳原昌悦から直接取材した際に得た例の
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれ
ていていないことだけれども。    ……………○柳
という証言のことである。この証言は仮説「♣」を傍証しているが、それはこの証言と「○随」とを互いに補完させて立てた仮説が「♣」だから当然のことではある。
 つまり、柳原は大正15年12月2日の賢治の上京の際には澤里と一緒に賢治の上京を見送ったということを保証し、ひいては、澤里がチェロを持って上京する賢治をひとり見送ったのは昭和2年の11月の霙の降る日であったということを導き出す拠り所
の一つにもなっているのがこの証言「○柳」である。
 (5) 『宮澤賢治日記』
 5つ目は賢治の日記からである。一般に賢治は日記を書いていないということだが、昭和2年の賢治の日記(印刷上は「大正十六年日記」)、いわば『宮澤賢治昭和2年日記』に限っては一部分(いわゆる「手帳断片A」)が残っている。そしてそこには次のようなことが書かれている。
 「大正十六年日記」の「三頁、1月1(土)」の欄に賢治は
   国語及エスペラント
   音聲學
と書き、同MEMO欄には
   本年中セロ一週一頁
   オルガン一週一課
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408pより>
と書いている。ということは、昭和2年の元日に賢治は
   国語、エスペラント、音声学
を学んだということであろう。
 そして、この「MEMO欄」の記載は1月1日のものだし、その記載内容からして
   本年中セロ一週一頁 オルガン一週一課
は賢治昭和2年の「一年の計」であることが判る。年頭に当たって昭和2年の賢治はまず「本年中セロ一週一頁」を第一に掲げていたということになる。そこからは、賢治のチェロに懸ける意気込みが伝わって来るし、チェロの腕前は殆ど初心者であったであろうことも同時に言えそうだ。オルガンは「一週一課」なのにチェロは「一週一頁」だからである。
 また、このことは前に挙げた証言 「三日でセロを覺えようとした人」の(b)及び(c)とも符合する。つまり、この(b)と(c)等の意味するところのチェロは全くの初歩であったということとも符合する。
 ではこの日記のメモが仮説「♣」とどう関わってくるかを次に少し考えてみたい。この日記の書かれ方〟一年の計の第一が「本年中セロ一週一頁」〝であることからは昭和2年の賢治がチェロに懸ける想いは相当なものであることが容易に理解できる。一般には日記を書かなかったといわれている賢治のようだが、昭和2年の年頭に当たってだけは日記を書き始め、しかも一年の計として
   本年中セロ一週一頁 オルガン一週一課
を掲げたからだ。かなり胸中期するところがあったに違いない、とりわけチェロの上達を。
 しかし現実には、チェロを学ぶことは名チェリスト西内荘一氏でさえも生やさしいことではなかったと述懐(後述する)しているくらいである。したがって賢治は早晩チェロを独習することの限界を悟ったであろうことが容易に推測できる。そこで賢治は何とかせねばならぬとばかりに、
 沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。
<『宮澤賢治物語(49)』(関登久也著、岩手日報連載、
昭和31年2月22日付)より>
と賢治は澤里に強い決意を語って、昭和2年の11月に上京したということは十分に考えられる。
 という訳で、この日記の記載事項も仮説「♣」の多少傍証になり得る。もちろん少なくともこの仮説の反例とはなっていない。
 (6) 伊藤清の証言
 関登久也の『宮澤賢治物語』の中に伊藤清の次のような証言がある。
 地人協会時代に、上京されたことがあります。そして冬に、帰って来られました。東京での色々のお話も伺いましたが、今は記憶しておりません。
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)268pより>
もちろん上京したのは宮澤賢治である。一般に賢治の「下根子桜時代」の上京は
 (ⅰ) 大正15年12月
のものと
  (ⅱ) 昭和3年6月
のものの2回だけというのが通説だが、それでは伊藤が証言するところの「下根子桜時代」における
 上京されたことがあります。そして冬に、帰って来られ
ました               ……………○清
とはどちらの上京のことを言っているのだろうか。もちろん、後者(ⅱ)の場合には6月中に戻っているものだから当て嵌まらないので、残りの、前者(ⅰ)の上京でしかあり得ないはず。
 ところが、この上京(ⅰ)は12月2日に上京して年内には花巻に
戻っているものだから、このような上京に対して「○清」のよう
な言い方は普通しないであろう。伊藤が「そして冬に」と言っていることに注意すれば、賢治が花巻を出立した時期は当然「冬」ではなく、なおかつ、賢治が帰花したのは「冬」であるということが言えるからである。
 つまり「○清」の中の上京とは、その花巻出発時期が「冬の前」
であるものであることが解るから、(ⅰ)もふさわしくない。(ⅰ)の出発時期は冬そのものだからである。
 となれば伊藤のこの証言はうろ覚えなのかといえばそうとも言えない。ちょうど仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花し
た。                 ……………♣
のことをそれは言っていると考えればぴったりと当てはまる。「11月」であれば時期は冬でなくてその前の秋だからである。
 逆に見れば、この伊藤の証言「○清」は澤里の証言「○随」及び次の証言
 そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。……○三
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
と符合しているから、仮説「♣」の一つの傍証となっていると言えるのではなかろうか。
  (7) 盛岡気象台の記録
 「通説○現」では、大正15年12月2日については
 セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)600p>
となっているから、もしこの日に花巻駅周辺で霙が降っていな
ければ、この「通説○現」の反例になるかも知れないし、仮説「♣」
の傍証となるかもしれないと思って盛岡気象台にお訊ねした。
 するとその回答は
・大正15年12月2日の花巻の天気は不明だが当日の降雨量は13.6㎜である。ちなみに当日の盛岡の天候は 朝夕雪、日中雨で、翌日の3日以降は雪が降っている。
ということであった。したがって、当日花巻に霙が降ったかどうかは判らない。盛岡の気象も踏まえれば花巻で霙が降った可能性も否定できない。よって私の目論見は崩れた。
 とはいえ、この盛岡気象台の気象データは「通説○現」を否定するものではないし、仮説「♣」を傍証するものでもない。も
ちろん反例となっている訳でもない。
 (8) 『詩人時代』編集部あて書簡
 ここからは私の早とちりの失敗談である。
 その顛末は次のようなものであった。
*******************<早とちりの顛末>*******************
 私は「やっぱり!」と叫んだ。というのは、『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)を読んでいたならば、「昭和三年(二一九二八)」の中に
   賢治 三十二歳
 一月十六日 新潟市旭町二ノ五二四一『詩人時代』編集部あて書簡
 ――新年おめでとう存じます。お詞の詩らしきもの、とにかく同封いたしました。他にぴんとした原稿沢山ありましたらしばらくお取り棄てねがひます。病気も先の見透しがついて参りましたし、きつと心身を整へて、今一度何かにご一所いたしますから。乍末筆新歳筆硯のご多祥を祈りあげます。         十六日
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)257pより>
とあったからである。
 今までは、まさかこの時期にこんな賢治の書簡があったということなどは全く知らないでいたので、これを新たに知って私はついつい抃舞してしまった。この書簡の内容は仮説「♣」の有力な傍証となると思ったからだ。つまり、賢治はこの昭和3年と考えられる1月16日付の書簡に
・(賢治は)昭和3年1月16日頃、自分は病気だったがその快癒の見通しも立った。
と書いていることになる訳だから、この書簡の内容により仮説「♣」の意味するところの
  賢治は昭和3年の1月頃病気になって花巻に戻った。
はさらにその信憑性が増したといえる、と私は喜んでしまったのである。
 ところがこの私の判断に対して、宮澤賢治研究家のI氏から
「昭和3年には、まだ詩人時代社編集部は存在していなかったのではないでしょうか」
というご指摘いただいた。私は慌てて『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)を捲った。
 まずは頁を繰りながら昭和3年前後の書簡を何度か見返してみた。見つからない。そこで通読することにした。すると、それは昭和8年の書簡の一つとして、
446 一月十六日 詩人時代社編輯部(吉野信夫)あて 封書
  《表》新潟市旭町二ノ五二四一 詩人時代社編輯部御中
  《裏》一月十六日 岩手県花巻町 宮沢賢治(封印)〆
新年おめでたう存じます。云々
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)421p~より>
とあり、以下全く同じものであった。私はしばし呆然としてしまった。この書簡は昭和8年1月16日付のものであったのだ。何のことはない私は糠喜びをしていたのだった。
 振り返ってみるに、こんな失敗をしてしまったのは私が『宮沢賢治とその周辺』を高く評価していたからだと思う。というのは、『国文学 解釈と鑑賞』は同書のことを
 ・従来の賢治年譜の欠けている所を補う目的で
とか
・賢治の研究が、原資料に基づかず、引用により孫引きの誤謬が増幅されるケースなども、正確な資料によって正されていること、特に宮沢賢治が生命を賭して尽力した、農業問題との関連に対する記述など全く他に類書が無く、賢治の生涯を知るためにも作品の研究を進めるためにも不可欠な資料である。
<『国文学解釈と鑑賞 平成三年6月号』(至文堂)106pより>
という評価していたからである(もちろんこれは偏に私の責任であり、至文堂を責めるつもりは毛頭ない)。
 その一方で、儀府成一は 
 ・ミスも多いが中々の労作である『宮沢賢治とその周辺』
<『宮沢賢治 その愛と性』(儀府成一著、芸術生活社)298pより>
と評価をしていたのだが、やはりここは前者の見方が正しかろうと、私の個人的なある感情を基に判断していた。
 それゆえ、『宮沢賢治とその周辺』において、「昭和三年(二一九二八)」の中に「一月十六日付書簡」があったことを知って私は喜ぶことはあっても疑うことは全くしなかった。他の資料と突き合わせることもせずに、
・賢治は昭和3年1月16日頃、自分は病気だったがその快癒の見通しも立った。
と同書簡で賢治自身が証言していた、とつい思い込んでしまった。そしてこのことが
・昭和三年 三十三歳(一九二八)
 △ 一月、…(中略)…この頃より、過勞と自炊による榮養不足にて漸次身體衰弱す。
<『宮澤賢治研究』(草野心平篇、十字屋書店版)所収「年譜」より>
となっていた「宮澤賢治年譜」があったことの一つの理由だったのではなかろうかと安易に判断してしまったのだった。
 そして、『宮沢賢治とその周辺』に載せてあった昭和3年「一
月十六日付書簡」は仮説「♣」を支えてくれるという確信を深め
させてくれた、と私は軽率にも喜んでしまったのだった。
 しかしそれは、私が先入観で物事を判断していたがゆえの早とちりの大失敗であった。
***********************<顛末終わり>*******************
 以上、これはあくまでも私の詰めが甘かったことによる失敗談である。おそらく、「昭和三年」のものであるとしている『宮沢賢治とその周辺』の記載も何らかのミスかと思われる。
 私は詰めの甘さを反省するとともに、一つの資料だけで判断することの危うさを教えて下さったI氏に深く感謝した。
(9) 「レコード交換會」
 関登久也は『宮澤賢治素描』の中の節「レコード交換會」において次のような意味のことを述べている。
 賢治は昭和2年10月21日付のある紹介状を作った。それは高橋慶吾を紹介し、慶吾が事務を執ってレコード交換会を行うというもので、不用なレコードや希望のそれを教えてほしい、というものであった。
と。そしてこの節の中には次のような関登久也の証言がある。
 交換会は結局は賢治氏が病床の人となつたり、慶吾さんの都合で良い結果を得なかつた様でありますが…
<『宮澤賢治素描』(關登久也著、協栄出版社)181pより>
ということは、昭和2年10月21日からそう遠くない時期に賢治は病臥したということが言える。
 するとかなり大雑把な話ではあるが、この時の病臥は仮説「♣」の中の「病気となり、昭和3年1月に帰花した」と符合する。したがって、関登久也のこの証言は仮説「♣」の多少では
あるが傍証となり得る。
 (10) 宮澤清六編「宮澤賢治年譜」
 昭和17年に出版された『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)には宮澤清六編の「宮澤賢治年譜」が所収されており、そこに次のような記載がある。
昭和三年一月、…この頃より過勞と自炊による栄養不足にて漸次身體が衰弱す。 ………………♥
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)259p>
 ということは、賢治は昭和3年1月には「漸次身體が衰弱す」という身体状況にあったということになる。したがってこの記載内容から、賢治は昭和3年1月中には帰花しており、家族の皆から心配されていたであろうことが推測される。なおかつ、これは賢治没後10年も経っていない頃の弟清六の編集による年譜だからまずは歴史的事実と判断できる。
 一方、皆さん既にお気づきのように仮説「♣」は
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月頃に帰花した。
のように本来は語句「頃」を付けねばならなかったものである。なぜならば、澤里武治の証言では
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がします。
となっているのだから、「昭和二年の十一月ころ」上京して3ヶ月弱滞京したとすれば、帰花するのはあくまでも「1月頃」とならねばならないからである。
 ところが私はこの語句「頃」を始めからこの仮説に付けなかった。その理由はこのような「宮澤賢治年譜」があることを知っていたからである。その月の何日に帰花したかは分からないにしても、少なくとも昭和3年1月中には花巻に賢治が戻っていたことはほぼ確実であろうと判断していたからである。
 逆に言えば、この宮澤清六編「宮澤賢治年譜」中の「♥」は仮説「♣」を裏付ける有力な資料の一つになっている。

3 直接証拠探し
 さて、幾つかの証言によって仮説「♣」をここまで検証してきた訳だが、正直その行為は隔靴掻痒の感が否めない。いくら
数多くの証言が仮説「♣」の反例とならなくとも、所詮今まで
の証言等はこの仮説の傍証でしかない。傍証をいくら積み重ねていっても、たった一つの直接証拠には敵わない。そこで私は澤里以外の人の直接証拠を探してみようと思い立った。
 では私が考えた直接証拠とは何か、それは日記である。賢治が下根子桜に住まっていた当時、すなわち大正15年~昭和3年
の間の誰かの日記に仮説「♣」の正しさを直接証明できる証言
等が記載されていたり、逆にこの仮説を否定することになる反例が書かれているのではなかろうかと思ったのである。
 そしてその「誰かの」であるが、私は次のような賢治周辺の人の日記にその可能性があるのではなかろうか考えた。
・伊藤忠一
・関登久也
・藤原嘉藤治
・堀籠文之進
 ・阿部 晁
・高橋末治
 では、まずは
 伊藤忠一の場合
 なぜ、伊藤忠一を考えたのかというと、『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)所収の〟座談会「先生を語る」〝の中で、伊藤が
 大正十五年一月だったと思う。日誌を見たら先生が一月十五日に町から大工さんを…
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)267pより>
と発言していたからである。
 そこで、私は伊藤忠一の生家を訪れて長男の和夫氏にその旨をお訊ねしたが、そのようなものはないということであった。
 関登久也の場合
 関登久也の場合については、『平成15年7月29日付岩手日報』紙上に「高瀬露に関連して関徳弥の昭和5年の日記が発見された」という記事が載っているからである。
 そこで、関登久也のご子息岩田有史氏をお訪ねしてこの件に関してお話をお聞きしたところ、父の遺したものは萬葉堂から北上市の日本現代詩歌文学館の方へ寄贈されているということだった。
 そこで日本現代詩歌文学館をお訪ねし、その寄贈されている中で日記等の資料閲覧を願い出たところ許可いただいた。それらは
 ・昭和3年の短歌日記
 ・ 〃 8年の短歌日記
 ・KOKUSAI―NOTE(昭和9年8月31日~翌年1月28日)
 ・昭和14年の日記
 ・明日の仕事(昭和14年6月10日以降)
 ・開拓帳17年の日記
 ・写生(昭和17年10月10日以降)
 ・用件覚書(昭和18年12月5日以降)
 ・昭和19年の日記
 ・日記帳(昭和19年4月6日~12月3日)
 ・創作ノート(随筆、昭和13年の日記)
 ・TEIDAI NOTE(昭和12年3月16日より)
等であった。
 とりわけ、「昭和3年の短歌日記」が興味深かったのだが、残念ながら直接証拠となるような記載はそこにはなかった。また、大正15年や昭和2年の日記は所蔵されていなかった。なお、新聞にも載った昭和5年の日記も同館には所蔵されていない。現在は中部地方のある県の方が所蔵しているという。
 藤原嘉藤治の場合
 藤原嘉藤治が当時日記を書いていたことは佐藤泰平氏や松本隆氏の著書からも分かる。そこで、藤原嘉藤治の生家をお訪ねして日記の閲覧をお願いしたところ藤原艶子氏より快諾をいただいた。ただし結論を先に言えば残念ながら大正15年~昭和3年の間のそれらはなかった。
 なお、藤原嘉藤治の日記関係リストは以下のとおりである。
 ・新文章日記 大正10年 文章倶楽部記者編
 ・当用日記 大正11年
 ・園芸日記 農業世界編 昭和9年
 ・青年日記 紀元2596年 大日本聯合青年団編(昭和11年)
 ・青年日記 紀元2598年 大日本聯合青年団編(昭和13年)
 ・青年日記 紀元2600年 大日本聯合青年団編(昭和15年)
 ・当用日記昭和17年
 ・昭和24年日記
 ・昭和25年日記
 ・昭和27年日誌
 ・昭和28年日誌
 ・昭和30年日誌
 ・当用日記1956
 ・自由日記1957
 ・広告手帳1958
 ・当用日記1959
 ・当用日記1960
 ・当用日記1961
 ・当用新日記1962
 ・Pocket Diary 1962
 ・当用日記1963
 ・当用新日記1964
 ・当用新日記1965
 ・当用日記1966
 ・当用日記1967
 ・農家日記1967
 ・当用新日記1968
 ・Pocket diary1970
<『藤原嘉藤治蔵書目録』(木村東吉制作)より>
 ということは、藤原嘉藤治はもともと大正15年~昭和3年の間は日記をつけていなかったのだろうか。それとも「堀籠文之進日記」同様所在が不明なのだろうか。なお、このリストにはあるのだが大正10年~11年の日記、及び『我が年譜』の現物も現在は藤原家には見あたらず、行方不明になっているようだ。
 堀籠文之進の場合
 「新校本年譜」をみれば、堀籠も当時日記をつけていたことがわかる(昭和3年3/13、5/3、5/16の記載等より)。おそらく大正15年~昭和3年の間もつけていたことであろう。さすれば、直接証拠を見つけ出せるかもしれないと思ったがそれもつかの間、がっくり。なんとなれば、「新校本年譜」(筑摩書房)の254pの脚注には
 ただし、「堀籠文之進日記」は所在が不明のため再確認することができない。
とあるではないか。堀籠の日記閲覧は物理的に無理なようだ。
 阿部晁の場合
 いわゆる〝阿部晁「家政日誌」〟なるものが存在するという。それは阿部晁が大正7年~昭和11年にわたって書き記した「家政日誌」であり、そのうちの宮澤賢治に関連する記事に関しての論考『阿部晁「家政日誌」による宮沢賢治周辺資料』(栗原敦・杉浦静著)があるが、その中から昭和2年11月頃~昭和3年1月頃前後のものを抜粋させて貰うと以下のとおりである。
【昭和二年】
○七月一六日
[往来・往]救世軍司令官山室女将講演 花城
○九月四日
[往来・来]堀籠教諭及宮沢賢治君
○九月一〇日
[往来・往]大沢温泉 佐藤院長及/宮政氏仝宿
○九月一九日
[往来・往]暁烏敏師大沢温泉へ案内
[贈答・受]暁烏氏ヨリ仏跡巡遊紀念トシテ其挨拶手製念珠及桓檀香木
○九月二〇日
[往来・往]暁烏敏氏「仏跡ヲ巡リテ」講演、女学校
○九月二二日
[往来・往]西田天香師講演 宗青寺/菊忠氏ヲ精養軒ニ招待 宮政君トシテ
○一一月一四日
[往来・往]八木英三君送別会
○一一月一八日
[往来・往]瀬川弥右ェ門
[贈答・進]松弥弟良蔵死亡ニ付御悔金壱円
【昭和三年】
○一月二日
[往来・往]宮沢政次郎氏
[贈答・進]宮沢政次郎家へおれんぢ貳本
○一月二〇日
[往来・来]宮沢賢治君
[要件・可]日蓮教会建立敷地トシテ南万丁目第十二地割二十二番原野ヨリ一歩(六十銭)二十六番畑ヨリ九歩(九円)分割売却ノ交渉ヲ宮沢花銀常務代理宮沢賢治ヨリ受ケ承諾ヲ与ヘタリ
[備考]日蓮教会発起人/佐々木源吉ト秋穂泉森宮恒松弥ノ四名ナルベシト思フ云々―宮沢君〔?〕
○一月三〇日
[往来・往]宮沢政次郎氏
[贈答・受]宮政方ニテ白酒又鍋焼ノ馳走ヲ受ク
[備考]花巻座ニ於テ発生映画ヲ視ル
○二月十六日
[文書・発]宮沢賢治君ヘ来演依頼
<『宮澤賢治研究Annual Vo.15』2005(宮沢賢治学会
イーハトーブセンター)168p~より>
 私はこれを見て、
  一月二〇日 [往来・往]宮沢賢治君
という記載があったので一瞬ヒヤッとした。がしかし、この時
期、1月も下って20日の賢治来訪であれば、仮説「♣」の反例
とまではならないだろうということで胸をなで下ろした。この頃になってやっと賢治の病気は癒えたとすれば説明がつくからほっとした。
 そしてほっとした途端、今度は喜びに変わった。それは、この阿部晁の日記のこの記載は賢治が昭和3年1月中には花巻に戻っていたことの証左となっているからである。
 先に〟(10) 宮澤清六編「宮澤賢治年譜」〝で述べたように、仮
説「♣」においては語句「頃」を本来は付けねばならなかったの
だが私は先のような理由から判断してそれを付けなかった。ところがその判断が正しかったということを阿部晁の「家政日誌」は示してくれた。つまり、阿部晁の「家政日誌」の「一月二〇日
[往来・往]宮沢賢治君」の記載は仮説「♣」を裏付けてくれる。
 高橋末治の場合
 「新校本年譜」の昭和2年3月4日には
 二月二七日付案内による「春ノ集リ」が開かれたと見られる。
 湯口村の高橋末治の日記によると「組内の人六人宮沢先生に行き地人協会を始めたり 我等も会員と相成る」。
<「新校本年譜」(筑摩書房346p)>
という記載がある。
 そこで、この人物高橋末治を探すために花巻湯口の鍋倉堰田をさまよってみたのだが、全く関連情報は掴めずにいる。
 一方で名須川溢男の論文「宮沢賢治とその時代」(『宮沢賢治 童話の宇宙』所収)によれば、「高橋末治日記」に書いてある賢治関連の右記以外の記載内容は次のとおりである。
 ○大正十四年十二月二十日 晴 雲り
自分前八時家を出て地森まで宮沢先生のむかいに行ッタけれ供も都合に衣り(ママ)来られなかっタ為免農学校まで六人て行ッ多后六時頃帰る
 ○大正十五年五月二日 晴天
前九時頃幸助様宅に宮沢先生来られて肥料の話をしてくれました
 ○大正十五年九月二十三日 晴天
宮沢先生わざわざ稲見に来られました
 ○大正十六年 昭和二年二月十九日 雲り
宮沢先生八木先生二名宝閑学校来て我等有益な講話して聞されました
 ○昭和三年二月十八日 晴天
花城学校に於て宮沢先生は、土地改良と稲作の話を聞いて帰りました
 ○昭和三年三月三日 大吹雪
宮沢先生に肥料の事にて行く
<『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)122p~より>
 結局は、直接証拠が記されている可能性の頗る高いこれらの日記であるが、以上の6名の日記の現物については現時点では一切見ることができずにいる。
 もしそのようなものが見つかって、その中の記載事項によっ
て仮説「♣」をずばり証明できればそれに越したことはないが、
もしそこに反例が見つかれば、今までの私の取り組みはあっけなく水泡に帰す。したがって恐ろしい一面もあるものだが、基本的には私は真実を知りたいだけだから水泡に帰すことも甘受する覚悟はしているので、是非これらの人の書いた日記の現物を見てみたいものである。
 それにしても、直接証拠となりそうなことが書かれている可能性の高い彼等の日記が、存在していたはずと思われる彼等の日記がこうもものの見事にないとか、現在行方不明になっているとかしているのは一体どうしてなのだろうか。
 ここまでを終えての結論
 以上でとりあえず予定していたものについての検証等は全て
終了した。その結果、これまでに検討した証言等は仮説「♣」
を裏付けるものは幾つかあったが、一方で反例となり得るものは何一つないこともわかった。したがって、この仮説は案外荒唐無稽でないのかもしれない。これがここまで検討してきてみての感想である。

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 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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