みちのくの山野草

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2004 願教寺

2011-02-14 09:00:00 | 賢治関連
 以前〝下根子桜の大正15年6月末~夏〟において願教寺のことに少し触れた。

 たまたま所用があって盛岡に出掛けたので、ついでに気になっていたこの願教寺を訪れてみた。
 『年表作家読本 宮沢賢治』には次のように述べられている。
 盛岡市の北山地区は、市の北部にある、藩政時代の寺院町である。
 賢治と北山との関係は、浄土宗本願寺派の北峰山願教寺における仏教夏季講習会に出席したことから始まる。願教寺は、仏教学者として名高い島地黙雷・島地大等の二住職が出たことで知られ、…

       <『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)より>
 
《1 願教寺山門》(平成23年2月13日撮影)

《2 境内へ》(平成23年2月13日撮影)

《3 境内》(平成23年2月13日撮影)

《4 本堂》(平成23年2月13日撮影)

《5 本堂脇に石碑あり》(平成23年2月13日撮影)

《6 賢治の歌碑》(平成23年2月13日撮影)

   本堂の
    高座に島地大等の
  ひとみに映る
   黄なる薄明
        賢治


 賢治は盛中3年のときにこの願教寺で開かれた夏季仏教講習会に参加しているということだが、そのときのことを詠んだ歌であろう。

 なお、この願教寺に関しては〝下根子桜の大正15年6月末~夏〟で触れたように、花巻農学校の同僚で賢治と同時期に退職した白藤慈秀が院代となった寺でもある。
《白藤慈秀》

       <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)より>
 その白藤慈秀が下根子桜を訪ねてきたときの白藤の証言はその際に投稿したが、今回はそのときのことに関連して詠んだと言われている賢治の心象スケッチを以下に示す。
   心象スケッチ
    林中乱思
   火を燃したり
   風のあひだにきれぎれ考へたりしてゐても
   さっぱりじぶんのやうでない
   塩汁をいくら呑んでも
   やっぱりからだはがたがた云ふ
   白菜をまいて
   金もうけの方はどうですかなどと云ってゐた
   普藤なんぞをつれて来て
   この塩汁をぶっかけてやりたい
   誰がのろのろ農学校の教師などして
   一人前の仕事をしたと云はれるか
   それがつらいと云ふのなら
   ぜんたいじぶんが低能なのだ
   ところが怒って見たものの
   何とこの焔の美しさ
   柏の枝と杉と
   まぜて燃すので
   こんなに赤のあらゆる phase を示し
   もっともやはらかな曲線を
   次々須臾に描くのだ
   それにうしろのかまどの壁で
   煤かなにかゞ
   星よりひかって明滅する
   むしろこっちを
   東京中の
   知人にみんな見せてやって
   大いに羨ませたいと思ふ
   じぶんはいちばん条件が悪いのに
   いちばん立派なことをすると
   さう考へてゐたいためだ
   要約すれば
   これも結局 distinction の慾望の
   その一態にほかならない
   林はもうくらく
   雲もぼんやり黄いろにひかって
   風のたんびに
   栗や何かの葉も降れば
   萓の葉っぱもざらざら云ふ
   もう火を消して寝てしまはう
   汗を出したあとはどうしてもあぶない

     <『校本宮澤沢賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>

 疲れ切っている賢治とはいえ
   白菜をまいて
   金もうけの方はどうですかなどと云ってゐた
   普藤なんぞをつれて来て
   この塩汁をぶっかけてやりたい

と感情を顕わにしている。
 そして、この〝普藤〟は指摘されているようにおそらく〝白藤〟のことであり、白藤自身は同時期に花巻農学校を辞めた賢治のことが気掛かりで訊ねたであろう『白菜をまいて/金もうけの方はどうですか』の問いに、賢治の方はかなり傷ついていたのであろう。まさしく下根子桜の林の中で乱思している賢治である。

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