みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

『-賢治昭和二年の上京-』(114~119p)

2013-11-04 09:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 まず、昨日ツイッター上でsignalessというお方から拙書『-賢治昭和二年の上京-』に関して、
稚拙滑稽噴飯墓穴唖然呆然→『-賢治昭和二年の上京-』P104上段〔生原稿では「隈」は実は「熊」だったが、後刻出版する際に「熊」のままでは流石に憚られるので「熊」を「隈」に差し替えようとした。ところが徹底されなかったために(詩の後半で)元々の「熊」が一部残ってしまったと推測される〕
と、漢文調の「稚拙滑稽噴飯墓穴唖然呆然」という評価とご批判ををいただいているようだが、このことについて少し説明を付け加えさせてもらう。それは、私は次のように認識しているということをである。
(1) まず、『宮澤賢治全集四』(筑摩書房、昭和31年発行)においては、この詩
   憎むべき「隈」辨弁当を食ふ
の中に〝熊〟という字はなくて皆〝隈〟である。
(2) 一方、『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房、昭和51年発行)においては、かくの如く最後のところの〝隈〟が〝熊〟になっている。
(3) 『校本全集第四巻』において、賢治の原稿を担当者が改竄するなどという行為はあろうはずがないことは当然である。
(4) あくまでも、『校本全集第四巻』のために提供された原稿にそのように書かれていたということになるはずである。つまり、その提供された原稿では〝熊〟と〝隈〟の混用があり、その「混用はあえて統一しなかった」のが『校本全集』担当者の対応であったはずである。
(5) ざっと見て、『宮澤賢治全集』(十字屋書店)にはこの「憎むべき「隈」辨弁当を食ふ」は所収されていない。
(6) ところが、『宮澤賢治全集四』(筑摩書房、昭和31年発行)にはそれが所収されていて、総べて〝隈〟になっている。したがって、この時提供された原稿が〝熊〟のままでは流石に憚られるので〝熊〟を〝隈〟に差し替えたものであったと思われる。ところがそれが徹底されなかったために最後の〝熊〟はそのまま原稿に残ってしまったと推測される、ということである。
(7) そしてこの(6)の原稿が、『校本宮澤賢治全集第四巻』でもそのまま使われたのではなかろうか、と。

 そこでsignalessさんにお願いです。これだけ長期間に亘って私や拙書のことをツイッター上でご批判し続けていただくのであれば、それはもちろんあなたの自由ですが、私がそれに気付かずに承らないままになってしまうことがあるかもしれませんので、どうぞ本ブログのコメント欄をお使いになって直接私にもなさってください。場合によっては、このようにそれにお応えできるかもしれませんので。
以上








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9 コメント

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Unknown (signakess)
2013-11-04 11:14:41
新校本全集を見れば、編者・研究者が賢治の生原稿と真摯に向き合い、どんな些細な校正、訂正の部分ものがさず記録されているのが誰にでも一目瞭然です。生原稿に第3者が記入した痕跡を見逃したり隠したりすることは有り得ないし不可能なことです。ですからそれをいうなら研究者を侮った意見です。

賢治学会、賢治研究は開かれたものです。
隠蔽・改竄はたとえ宮沢家であっても不可能です。
仮にそんなことが通るのであれば、賢治研究はとうに崩壊しています。
返信する
どなたでしょうか (signakess? 様へ(鈴木 守))
2013-11-04 12:42:45
signakessとはsignaless様のことでしょうか?
返信する
Unknown (signaless)
2013-11-04 13:21:12
失礼しました、signalessの間違いです。
返信する
ご訪問ありがとうございます (鈴木 守)
2013-11-04 13:42:41
signaless 様
 この度はご訪問いただきありがとうございます。

 まずはっきりしていることは、
(1) 『校本全集第四巻』の担当者が改変するなどという行為をするはずがない。
(2) 上掲書のために提供された原稿には詩の後半に「熊」が用いれらていた。

 したがって、以下の2つのことが推測できるし、しかもその2つしかないと思います。
(ア) 上掲書発行以前に、賢治以外のある人物が賢治の原稿にあった「熊」の文字を「隈」に差し替えた。ただし、その際最後の「熊」は直さないでしまった。
(イ) 賢治の原稿そのものにおいて、賢治は最初モデルの名を「隈」としたが、その詩の後半部分ではその名をつい「熊」としてしまったというケアレスミスをした。

 そうすると、やはり(イ)はまず疑いたくないから、(ア)であると推測するのはそれほど不自然ではないし、しかも、かつて「白菜畑」において賢治以外の人物によって「改変」がなされていたことは歴史的事実であるからなおさらにである。

 つきましては、signaless様におかれましては、上記「改変」のことを一度ご確認ください。それを受けまして、この続きを述べたいと思いますので。
返信する
Unknown (signaless)
2013-11-04 14:02:00
申し上げているように、賢治以外の人が原稿に書き込んだり文字を差し替えたりすることはできません。あったとすれば、すぐにわかってしまうからです。
つまり、(イ)の賢治が「隈」と書いていたものを後の方でうっかり「熊」と書いてしまったという以外ありえないと思います。
返信する
私がまずお願いしたことは (鈴木 守)
2013-11-04 14:06:46
signaless 様
 早速の折返しのコメント有り難うございます。
 ただし、私がまずお願いしたことは、

   『上記「改変」のことを一度ご確認ください』

ということです、ご確認いただけたでしょうか?
返信する
済みません、明日は対応できません (signaless 様へ(鈴木 守))
2013-11-04 20:20:53
signaless 様へ
 さて、その後回答がまだございませんし、明日は母の介護のために外出せねばなりませんので直ぐに折返しのコメントが出来ないと思いますので、現時点で一つお話ししておきます。

 それは、先程signaless様は直ぐに折り返しで

(イ)の賢治が「隈」と書いていたものを後の方でうっかり「熊」と書いてしまったという以外ありえないと思います。……★

と断定なさっておりましたが、かつて拙書『賢治昭和二年の上京』を執筆していた頃の私は、とてもとても〝★〟等ということは考えられませんでした。

 そもそも、このような詩「憎むべき「隈」辨弁当を食ふ」をあの賢治がまさか詠むなどということは到底あり得ないはずだと、この詩に初めて接したたとき私は訝り、嘆くしかありませんでした。
 下根子桜時代の賢治は菩薩となって貧しい農民を救おうとしていたはずだとずっと思っていた私はかなりショックでした。この詩「憎むべき「隈」辨弁当を食ふ」の中での賢治の心の有り様は、そのような賢治とは真逆だったからです。
 たしかに、当時下根子桜の周辺に「隈」という人はいませんから、賢治は気を遣って仮名にしたのだとは思ったのですが、その感情の赴くままに、憎悪を抱きつつ言いつのっていると私が受け取ったこの詩の中身は到底信じられないものでした。しかも、そのタイトルまでしっかりとついているわけですから、この詩は賢治の一過性の感情が書かせたものではないとも私には思われました。
 それならばいっそのこと、せいぜいそんなケアレスなミスなどせずに、堂々と全て「熊」のままで押し通して書いた方がまだ救われる、と正直私は思ったくらいです。
 それ故に、私は件の

(ア) 上掲書発行以前に、賢治以外のある人物が賢治の原稿にあった「熊」の文字を「隈」に差し替えた。ただし、その際最後の「熊」は直さないでしまった。

のセンがありではなかろうかと思ったような気もします。

 私が悩ましいのはこの「隈」「熊」問題もありますが、それ以上にこのような詩そのものを賢治が詠んで、しかもそれに題さえも付けていたという事実があったというさらなる難題です。私は未だもってこの詩に関しては全く心を整理できておりません。
 ただし、真相がもし〝★〟であったとすれば、私の常日頃の想い《創られた賢治から愛すべき賢治へ》の一つがそこにあったことになるので、是とすべきなのかもしれませんが。
  以上

 というわけで、例の回答をいただいてもそれに対する私のコメントはかなり遅れるかもしれませんので、悪しからず。
返信する
Unknown (テジマア)
2013-11-05 18:26:20
すみませんが、ちょっと横から失礼いたします。
またまたブログ主さんの変てこりんな説が出てきたなと思ったら、今度は珍しくあっさり自説を訂正しようかと迷っておられるんですか?(笑)

そもそも、今回の「隈」「熊」の問題は、ブログ主さんがあれこれ勝手に考えをめぐらせておられるようなあいまいな主観的判断によって決めるべきものではなくて、純粋に「草稿の文字が賢治の自筆なのか、他の人の筆跡なのか」という、客観的な所見に基づいた判断によって、決めるべき事柄です。
この問題に対して新旧校本全集の編集者は、綿密な草稿調査を行った上で、草稿に記された「隈」「熊」はいずれも全て賢治の自筆であると判断して現在の全集のように校訂しているわけですから、もしもブログ主さんがその判断に対して異論を唱えたいのであれば、そのためには賢治の草稿をご自身で調査して、その筆跡や筆記具の検証を行い、何らかの説得力のある所見を呈示するほかはないでしょう。

それをせずに、上のように「(賢治がケアレスミスをしたとは)疑いたくないから」とか、《創られた賢治から愛すべき賢治へ》など、自分の願望にすぎない(後者では意味不明の)理屈をこねまわしても、何の根拠にもなりません。


それから、上でブログ主さんは「白菜畑」の「改変」とかいうことを持ち出しておられますが、これは、「〔〔盗まれた白菜の根へ〕」において、昔の全集本文が「さうしてそれが無抵抗思想/東洋主義の勝利なのか」となっていたのに対し、校本全集以降は「さうしてそれが日本思想/弥栄主義の勝利なのか」となっていることを指しておられるんでしょうね。
それでしたら、この相違の由来は、賢治自身がテキストを推敲・改稿した結果をどう読み取りどの形態を最終形と判断するかという、やはり校訂上の問題であって、これも他人による「改変」「改竄」とは全く異なることは、言うまでもありません。
「賢治以外の人物によって「改変」がなされていたことは歴史的事実である」だなんて、まあよく言えたもんですね。

いずれにしても、ブログ主さんはご自身が何か疑問にぶつかると、すぐさま何の根拠もなしに「誰かが意図的に改変したのだ!」とか言い立てられる傾向がおありのようですが、それを言う前に、もっと理性的に物事を考えられることを、お勧めします。
返信する
Unknown (signaless)
2013-11-05 22:06:30
コメントのお返事が遅くなってすみません。テジマアさんのコメントの補足解説のような形になります。
それと私の意見です。

鈴木さんが「白菜畑」と仰るのは、新校本第四巻所収の「七四一 白菜畑」のことではなく、「七四三 〔盗まれた白菜の根へ〕」のことですね。

定稿とされる詩の
「さうしてそれが日本思想
弥(いや)栄主義の勝利なのか」
という部分が、十字屋版では
「さうしてそれが無抵抗思想
東洋主義の勝利なのか」
に変えられたという件。

入沢康夫さんに教えていただいたところによれば、
「この詩が十字屋版全集に載った時(昭和十五年皇紀二千六百年)には、時局を顧慮し、下書稿(四)の手入れ(4)までの形が、「白菜畑(作品第七四三番)」の題で採られていました。これは、その時期としては、発禁を避けるための、万止むを得ざる処置であったと思います。」
ということです。
さらに確認していただいたところ、それ以前の昭和10年7月25日発行の文圃堂版全集で、すでに同様に「さうしてそれが無抵抗思想/東洋主義の勝利なのか」となっていることがわかりました。

つまりは、当時はどのような書物や文章であれ、当局が目を光らせ厳しく取り締まっていた、ということですね。そのような、やむを得ない処置は、改竄とは言いがたく、それとこれとを一緒に論じることはできません。
賢治研究の観点に置いては関係も責任もないことと言えます。

文圃堂版・十字屋掲載のテキストについてですが、新校本全集第4巻〔校異篇〕のP67をご覧になるとわかりますが、賢治が最終的に「日本思想」「弥栄主義」と訂正する直前の文字を採用した形になっています。つまり、これらの「無抵抗思想」及び「東洋主義」という言葉は、誰かが勝手に書き換えたというわけではないことがわかります。
上記の入沢さんのお言葉にもある「下書稿」について説明させていただくと、現存する原稿は下書稿(一)、(二)、(三)、(四)と定稿の3枚4面です。下書稿(一)、(二)、(三)は黄掛詩稿用紙1枚の裏表に鉛筆で書かれ複数の鉛筆の手入れがあるもので、下書稿(四)は黄掛詩稿用紙1枚に鉛筆で書かれたものに数種類のインクで手入れしたもの。定稿はインクできれいに清書された手入れ跡のないものです。
賢治は下書稿(四)で「無抵抗」を消して「日本」に、下書稿(四)の「東洋主義」を最終稿で「日本主義」に書き直しています。
ややこしいですが、つまりそれらは賢治が手入れする前の、賢治自身の言葉ではあるわけです。

この例を見てもおわかりのように、賢治の現存する作品すべてにおいて用紙から筆記具、書かれている状態まで詳しく説明があり、このように一言一句もらさずに訂正や推敲の跡がわかるようになっています。まったく関係のない落書きのようなものまで記されています。
つまり、鈴木さんの主張は賢治の原稿に他者が手を入れた、というものですが、それに関しては当時も今もまったくあり得ないことに変わりありません。

私もツイッターでは少し言葉が過ぎたと思っています。そのことはお詫びします。
鈴木さんの
「生原稿では「隈」は実は「熊」だったが、後刻出版する際に「熊」のままでは流石に憚られるので「熊」を「隈」に差し替えようとした。ところが徹底されなかったために(詩の後半で)元々の「熊」が一部残ってしまったと推測される」
というお言葉は、お気づきになっておられないのかも知れませんが、原稿を守り真摯に研究を重ねてこられた方々をあまりにも侮辱することになり、その時の私は怒りを抑えることができませんでした。
ただ、冷静になった今では鈴木さんはこんにちの賢治研究の在り方をご理解いただいていなかったのかもしれない、とも思うになりましたがいかがでしょうか。

浜垣さんが鈴木さんと議論を続けてこられたのは、賢治の作品や年譜を誰かが改竄したり事実を隠蔽したというあり得ないことが、噂やデマとなって広がってしまうこと、それに伴い誰かがいわれのない汚名を着せられてしまうことへの危惧と心痛に他ならないと思います。私もまったく同じ思いであり、テジマアさんやとおりすがりさんも恐らく同じではないかと思います。決して鈴木さんを攻撃したり貶めるためではまったくないということは理解していただきたいのです。

賢治が亡くなって間もなくの頃は資料を読み解くことも難しく、活字になったものについても不完全なものもあったかと思います。それは例えば「銀河鉄道の夜」のテキストの変移を見てもわかることです。こんにちの一応の完成形にたどりつくまでには、研究者の方々のとてつもない緻密な解読・検証作業の積み重ねがあったからこそのものです。作品だけでなく年譜に関しても同じです。確実な根拠をもとめ、証言をひとつひとつ検証してこそ事実、あるいはほぼ事実だとできることを年譜として上げられます。また、確証はとれなくとも可能性があることであれば、そのようにわかるように記されています。ですから鈴木さんが推測されている昭和2年の上京の可能性についても言及されています。
かつては整っていなかったものが、校本全集、さらには新校本全集へとまとめられたのはひとえに、賢治作品をきちんと残したい、全ての人に賢治の全てを明らかにしたいという研究者・関係者の強い思いと努力のたまものに他ならないと私は考えています。
全てを明らかにする、ということは、改竄や隠蔽の入り込む余地はまったくありません。たずさわった方々のお名前が明記されていますが、それはその方々が責任をもって仕事をしたということではないでしょうか。

確かに、かつては物語風な評伝があったり、どこまでが事実なのか明確でないものもあったと、私も思います。証言というのはどうしてもその人の主観が入り込んでしまうのは避けられません。それに人間関係というのは相対的なものです。しかし、現在の賢治研究ではそれらも考慮され、バランスのとれた客観的視点のものになってきていると私は感じているのですが。
これは私の憶測ですが、もし、公に伝えられていない事実があるとしたら、それはメリット・デメリットを考慮して、誰かが不当に名誉を傷つけられるとか、デメリットのほうが大きいことではないかと思います。まだ遺族親族がたくさんおられる狭い地域のことです。たとえ事実だからと言って何でも公表していいわけではないはずです。また、あえて特定しないでおくほうがいいことも多々あると思うのです。

鈴木さんのコメントにあった、「このような詩「憎むべき「隈」辨弁当を食ふ」をあの賢治がまさか詠むなどということは到底あり得ないはずだと、この詩に初めて接したたとき私は訝り、嘆くしかありませんでした」についてですが、賢治も人間です。怒るときもあれば気に入らない人もいた、そりの合わない人もいたでしょうし、又逆に賢治をよく思わない人も多くいたはずです。生きている人で万人から好かれている人はこの世に存在しないと思います。
賢治はいろんな心情を詩に書いています。いわば「迷いの跡」かもしれませんが、それがまた人間賢治の魅力にもつながるのではと思います。賢治は聖人視されていた時期もあったかもしれません。今もそう思っている人もいるかも知れません。でも私は、私たちと同じように喜怒哀楽を持ち、苦しみ悩んだひとりの人としての賢治の姿が見えてきた時、初めてほんとうの賢治に会い、ほんとうの賢治の素晴らしさの一端に触れたような気がしました。
鈴木さんの掲げられた《創られた賢治から愛すべき賢治へ》というテーマは素晴らしいと思っています。賢治を深く追求したい人は、結局そこに行き着くのではないかと思います。少なくとも私の知る研究家や愛好家はみなそういう方だと思います。賢治学会、研究会も、その方向へ進んで来たし今後もそうだと感じています。
鈴木さんがなぜ、賢治研究の世界にどろどろとしたものを感じておられるのか、私にはよくわかりませんが、少なくとも鈴木さんが今回『賢治昭和二年の上京』で主張されてきたような、改竄や隠蔽などということは全くないと言えます。

「昭和二年の上京」に関しては、実のところ私も可能性があるのではと感じています。
しかし、鈴木さんは沢里さんの証言だけを柱に検証を進めようとするために、理論がなりたたなくなってしまうのではないでしょうか。それを無理にたたせようとするために、誰かが証言の訂正を強要したとか、昭和二年上京を隠そうとしたなどという方向に行ってしまうのだと思います。
アプローチの仕方を変えてみることは有効ではないでしょうか。柱や骨格になる部分を間違えると建物は崩れてしまいます。沢里さんの証言は、柱ではなく、肉付けとなる類のものではないかと思いますがどうでしょうか。せっかくここまで資料を集められ、検証を進めてこられたのですから、ぜひともお続けになってください。これは一賢治愛好家としての素直な意見です。
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