みちのくの山野草

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大内秀明氏からの「私見」支持と示唆

2024-05-16 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)

 すると、私(鈴木守)が述べた、賢治の「下根子桜」からの撤退や、「陸軍大演習」に伴う凄まじい「アカ狩り」などに関する「私見」に対して、東北大学名誉教授大内秀明氏より次のような、
 ところで賢治の「真実」ですが、『賢治と一緒に暮らした男』の第一作に続き、今回はサブタイトル「賢治昭和二年の上京」に関しての『羅須地人協会の真実』でした。と同時にブログでは、「昭和三年賢治自宅謹慎」についての「真実」を、同じような仮説を立てての綿密な実証の手法で明らかにされています。この手法は、幾何学の証明を見るように鮮やかな証明です。実を言いますと、「昭和二年の上京」よりも、「昭和三年賢治自宅謹慎」の方が、現在の問題関心からすると、より強く興味を惹かれるテーマです。このテーマに関しても、すでにブログで「結論」を出されていますし…(投稿者略)…鈴木さんの問題の提起は、「澤里武治宛の宮沢賢治書簡」(昭和三年九月二三日付)の文章にあります。「お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にもはいり、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたままで、七月畑に出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。演習がおわるころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかかります。休み中二度お訪ね下すったそうでまことに済みません」ここに出てくる演習について、その意味を探って行きます。以下、簡単に紹介させて貰いましょう。

 「賢治年譜」によると、昭和三年八月のこととして、心身の疲労にも拘らず、気候不順による稲作の不作を心配、風雨の中を奔走し、風邪から肋膜炎、そして「帰宅して父母のもとに病臥す」となっている。しかし、当時の賢治の健康状態、気象状況、稲作の作況など、綿密な検証により、「賢治年譜」は必ずしも「真実」を伝えるものではなく、事実に必ずしも忠実ではない。とくに「賢治の療養状態は、たいした発熱があったわけでもないから療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしていた。」
 では、なぜ賢治が自宅の父母の元で療養したのか?
 「陸軍特別大演習」を前にして行われた官憲の厳しい「アカ狩り」から逃れるためであり、賢治は病気であるということにして、実家に戻って自宅謹慎、蟄居していた。
 「例えばそのことは、
  ・当時、「陸軍特別大演習」を前にして、凄まじい「アカ狩り」が行われた。
  ・賢治は当時、労農党稗和支部の有力なシンパであった。
  ・賢治は川村尚三や八重樫賢師と接触があった。
  ・当時の気象データに基づけば、「風の中を徹宵東奔西走」するような「風雨」はなかった。
  ・当時の賢治の病状はそれほど重病であったとは言えない。」

 以上が、「不都合な真実」に対する本当の「真実」です。ここでも羅須地人協会と賢治の活動の真実に基づく実像を明らかにする上で、大変貴重な検証が行われたと評価したいと思います。
             〈『宮沢賢治の「羅須地人協会」 賢治とモリスの館十周年を迎えて』(仙台・羅須地人協会代表大内秀明)31p~〉
という評を頂いた。そこで私は、「私見」に支持を頂けたものと受け止め大内氏に感謝するとともに、身に余る評価に恐縮するばかりだが、私の主張は案外荒唐無稽なものでもなさそうだということをお陰様で知って、実は安堵もした。
 そして同時に、大内氏は続けて、
 昭和三年といえば、有名な三・一五事件の大弾圧があった年だし、さらに盛岡や花巻でも天皇の行幸啓による「陸軍特別大演習」が続き、官憲が東北から根こそぎ危険分子を洗い出そうとしていました。そうした中で、賢治自身もそうでしょうし、それ以上に宮沢家や地元の周囲の人々もまた累が及ばぬように警戒するのは当然でしょう。事実、賢治と交友のあった上記の川村、八重樫の両名は犠牲になった。「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐の通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。
            〈同33p〉
と論じておられたので私ははっとした。それまでは、正直この時の賢治の対処の仕方は清算主義的傾向があるので違和感を抱いていたのだが、大内氏のこの示唆のとおりだ気付かされ、己の狭量さを恥じた。今に生きる私が当時の賢治の対処についてとやかく言えるものではない、なにしろ私が同じような立場におかれたならばいともたやすくにそうしかねないし、当時そうする人も少なくなかったからだ。あるいはまた、そのような身の処し方をする賢治の方がかえって身近な存在と感ずることができて、賢治は実はとても愛すべき人間だったのだと思えてくる。

 さらに、大内秀明氏は論文「労農派シンパの宮沢賢治」(『土着社会主義の水脈を求めて』所収)の中でも、
 羅須地人協会と賢治の活動の真実に基づく実像を明らかにする上で、大変貴重な検証が行われたと評価したいと思います。とくに羅須地人協会の賢治が、ロシア革命によるコミンテルンの指導で、地下で再建された日本共産党に対抗して無産政党を目指した「労農派」の「有力なシンパ」だったこと。社会主義者川村や八重樫とレーニンのボルシェビズムなどを激しくを議論していたこと。そのため岩手で行われた「陸軍特別大演習」に際しての「アカ狩り」大弾圧を受ける危険性があり、そのため父母の計らいもあって、賢治は病気療養を理由に「自宅謹慎」していた。
 確かに「賢治年譜」には「不都合な真実」を曖昧にする意図が感じられます。もっと賢治の実像が明確になるように書くべきだったし、今日の時点では「真実」が書かれても、賢治にとって「不本意」なことだったにしても、さほど「不都合な真実」では無いように思われます。昭和三年といえば、有名な三・一五事件の大弾圧があった年だし、さらに盛岡や花巻で天皇の行幸啓による「陸軍特別大演習」が続き、官憲が予防検束で東北から根こそぎ危険分子を洗い出そうとしていた。そうした中で、賢治自身もそうでしょうし、それ以上に宮沢家や地元の周囲の人々もまた累が及ばぬように警戒するのは当然でしょう。事実、賢治と交友のあった上記の川村、八重樫の両名は犠牲になった。「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。
            <『土着社会主義の水脈を求めて』(大内秀明・平山昇共著、社会評論社)302p~>
と論評してくださっていることも知って、私は改めて大内氏に感謝し、先に定立した次の仮説、
〈仮説:昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……○*〉
にさらに自信を深めたのだった。

 一方で、この〈仮説 ○*〉に対する反例はやはり見つからないし、現時点ではどなたからも反例を突きつけられていないので、この仮説は検証されたと言える。したがって、この仮説は今後反例が突きつけられない限りは、という限定付きの事実である、と言える。

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    来る6月9日(日)、下掲のような「五感で楽しむ光太郎ライフ」を開催しますのでご案内いたします。 

    2024年6月9日(日) 10:30 ▶ 13:30
    なはん プラザ COMZホール
    主催 太田地区振興会
    共催 高村光太郎連翹忌運営委員会 
       やつかのもり LCC 
    参加費 1500円(税込)

           締め切り 5月27日(月)
           先着100名様
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