《創られた賢治から愛される賢治に》
以前私は、賢治が昭和3年8月10日に実家に戻ったのは病気のせいではなく、官憲の凄まじい弾圧から逃れるためだったという可能性がすこぶる高いということを主張した。そのような、通説とは全く異なる荒唐無稽な(とはいえ私個人はあながちそうであるとばかりは言えないと今でも思っているのだが)主張をした私だったが、その私でさえもそのようなことがあろうなどとはゆめゆめ考えもしなかった、説得力に富むある主張をこの度知った。それは『イーハトーヴの植物学』の中において論じられている伊藤光弥氏の「昭和三年三月十五日の肥料相談はなかった」という主張であり、その主張内容は私にとっては圧巻であったので以下に少しずつ紹介させてもらいたい(伊藤氏に対しましては大変失礼な表現になりますが、その伊藤氏の見方と私がした荒唐無稽な主張は構造的にとても良く似ている気がしましたので、なおさらにです)。
そこでは、伊藤氏はまず菊地信一の回想記「石鳥谷肥料相談所の思い出」の一部
羅須地人協会の生まれた翌年の昭和三年三月十五日。雪きの消え失せた許りの並木敷地には、春の陽をいっぱいに受けて蕗の芽は萌え初めてゐた。
柳原町長の盡力でポスターは貼られ、照井源三郎氏のお世話で慶長年間藩公の築かれた一里塚の向かひの店先に八畳敷と土間を提供され、荒造りの大きな卓子と火鉢二三個、そして四角の壁には三色で無造作に描かれた肥料と水稲の関係の図が十数枚貼られ、風にガワガワゆらいでゐた。
この町の南端―並木の間の光とかぜの中の小屋こそ、宮澤先生の努力で生まれた俗称『塚の根』肥料相談所であつた。…(以下投稿者略)…
<『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)14p~より>柳原町長の盡力でポスターは貼られ、照井源三郎氏のお世話で慶長年間藩公の築かれた一里塚の向かひの店先に八畳敷と土間を提供され、荒造りの大きな卓子と火鉢二三個、そして四角の壁には三色で無造作に描かれた肥料と水稲の関係の図が十数枚貼られ、風にガワガワゆらいでゐた。
この町の南端―並木の間の光とかぜの中の小屋こそ、宮澤先生の努力で生まれた俗称『塚の根』肥料相談所であつた。…(以下投稿者略)…
を引用し、この菊地の証言を基にしてその開設時期は実は昭和三年ではなくて、前年の昭和二年のことであったと論じている。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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