《創られた賢治から愛される賢治に》
『肥料相談所』開設日と「三・一五事件」そして伊藤氏は次のように続けている。
この回想記にある昭和三(一九二八)年三月十五日は、共産党や労農党地方幹部などが全国一斉検挙された日である。…(投稿者略)…共産党やその同調者と見られた労農党、日本労働組合評議会などの幹部役員がこの日の検束対象となった。岩手県でも労農党盛岡支部や稗和支部の役員が拘束された。労農党シンパ(協力者)として支部結成や選挙運動に積極的な活動をしていた賢治が、はたしてこの日に取り調べを免れることができたであろうか。
<『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)16p~より>私はここを読んで衝撃が走った。いままでは、ついつい昭和3年の夏の凄まじい「アカ狩り」にばかり目がいってしまっていて何でこのことにも注意を払わなかったのかと。『そうだよな、この年には「三・一五事件」があったのだった』と私は自分の浅はかさにほぞをかんだ。
一方、上田仲雄氏の論考「岩手無産運動史」によれば、
所謂三・一五事件は、一道三府二七県に及ぶ、労農党、全日本無産社同盟、評議会、日農党の幹部の一斉検束を行い千五百六十八の検挙、送検七百名、被告訴五百三十人に及んでいる。
この大検挙に追い打ちをかけ、四月十日、労農党、評議会、全日本無産青年同盟に解散を命じた。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)51p~より>この大検挙に追い打ちをかけ、四月十日、労農党、評議会、全日本無産青年同盟に解散を命じた。
ということであり、「三・一五事件」は(その上田氏の表現を借りれば)『日本の無産運動にはかり知れない大打撃を与えた』のであった。
奇しくも、『塚の根肥料相談所』の開設日とこの「三・一五事件」の起こった日は同一日であるということになっている。
伊藤氏の「はたしてこの日に取り調べを免れることができたであろうか」という指摘は、暢気な私にとっては青天の霹靂であり、圧巻であった。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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