〝賢治、家の光、犬田の相似性(#2)〟の続きである。
4.農村雑誌『家の光』
ところで、なぜ私の頭の中でドミノ倒しが起こったのだろうか?
振り返ってみれば、一つは井上寿一の『戦前昭和の社会』が関わっていたのかなと思われる。
同書には
1 立ち上がる農民――雑誌『家の光』
という節があり、そこには、次のようなことなことなどが述べられている。
もちろん直ぐ指摘できることは、この『家の光』の創刊時期と羅須地人協会の時代は同じ時期であることである。そして『宮沢賢治とその周辺』の「農業技師」の内容、特に〝労農めいた保守主義〟と『家の光』の〝共同主義=農業改良主義〟の間には強い類似性があるのではなかろうか、と直感したからかもしれない。例えば、羅須地人協会における賢治の諸活動とこの『家の光』の謳っている〝反資本主義、反都市〟などは通底しているのではなかろうか等のように。
そして私は想像した。川原が『宮沢賢治とその周辺』で指摘しているように、岩手県農会に立ち寄った賢治はそこに相当数あった農業関係の蔵書を読んでいた訳だが、その蔵書の中には雑誌『家の光』もあったと。それまでは宮澤賢治と『家の光』が繋がっているなどとは露ほども考えたことなどなかったのだが、きっと賢治は『家の光』を実は読んでいたに違いないと。
たぶんこれらが、第一のドミノ倒し
賢治→家の光
が起こった理由かなと今にしてみれば考えられる。逆に見れば、賢治の下根子桜における活動は、当時疲弊していた農村を何とか救おうという時代の大きな流れの中の一つだったということなのだろう…か。
そしてたしか『家の光』には、犬田卯の記事も結構載っていたはずだ。
続きの
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4.農村雑誌『家の光』
ところで、なぜ私の頭の中でドミノ倒しが起こったのだろうか?
振り返ってみれば、一つは井上寿一の『戦前昭和の社会』が関わっていたのかなと思われる。
同書には
1 立ち上がる農民――雑誌『家の光』
という節があり、そこには、次のようなことなことなどが述べられている。
農村雑誌『家の光』
農村は疲弊していた。欧州大戦後の戦争景気の反動不況が都市よりも農村に深刻な打撃を与えたからである。農村雑誌の『家の光』が創刊されたのは、このような状況のなかだった。創刊号(一九二五(大正一四)年)のカラーの表紙はのどかな田園風景である。農婦が菖蒲の花を活けている。遠くには鯉のぼりが泳いでいる。
このような明るい表紙とは異なって、誌面には危機感が溢れていた。「本紙記者」は言う。「去る大正十年頃から急に農村問題が社会問題の中心となって……猫も杓子も口にし、筆にしなければならぬ大きな問題となった」。「今日迄の農村振興は何も空鉄砲である、不渡手形である。そこで何とか局面を転回して農民の実生活方面から根本の改造」をしなければならない。…(略)…
ここに近代的な農業経営と新しい生活様式を求めて、農民が立ち上がる。
『家の光』の発行母体、産業組合中央会は、一九一〇(明治四三)年に産業組合法(一九〇〇<明治三三>年に公布)にもとづき国が設立した、いわば官製組合である。しかし創刊号の巻頭言の宣言「われ等の理想は、同心協力の精神であり、共存同栄の社会である」が示しているように、『家の光』は、体制批判をふくんでいた。
『家の光』の「共存同栄」の共同主義は、第一に政党政治、第二に資本主義、第三に都市、これら三つに対する対抗原理である。…(略)…
読者の中には『家の光』の共同主義=農業改良主義に触発されて、農村振興の隊列に加わろうとする農民が出てきた(一九二六<大正一五>年二月号)。この読者は「先ず何より収入増加である」と言い切る。利潤追求の資本主義を否定することなく、農業の近代化を図ることが目的だからである。
そのためには米・麦・繭の増収はもちろん、野菜の栽培、果樹の植栽、養畜や副業をおこなう。…(略)…共同主義の理念の下、近代的な農業経営の実践をとおして下層階級からの脱却を図る。『家の光』には希望があった。
農村は疲弊していた。欧州大戦後の戦争景気の反動不況が都市よりも農村に深刻な打撃を与えたからである。農村雑誌の『家の光』が創刊されたのは、このような状況のなかだった。創刊号(一九二五(大正一四)年)のカラーの表紙はのどかな田園風景である。農婦が菖蒲の花を活けている。遠くには鯉のぼりが泳いでいる。
このような明るい表紙とは異なって、誌面には危機感が溢れていた。「本紙記者」は言う。「去る大正十年頃から急に農村問題が社会問題の中心となって……猫も杓子も口にし、筆にしなければならぬ大きな問題となった」。「今日迄の農村振興は何も空鉄砲である、不渡手形である。そこで何とか局面を転回して農民の実生活方面から根本の改造」をしなければならない。…(略)…
ここに近代的な農業経営と新しい生活様式を求めて、農民が立ち上がる。
『家の光』の発行母体、産業組合中央会は、一九一〇(明治四三)年に産業組合法(一九〇〇<明治三三>年に公布)にもとづき国が設立した、いわば官製組合である。しかし創刊号の巻頭言の宣言「われ等の理想は、同心協力の精神であり、共存同栄の社会である」が示しているように、『家の光』は、体制批判をふくんでいた。
『家の光』の「共存同栄」の共同主義は、第一に政党政治、第二に資本主義、第三に都市、これら三つに対する対抗原理である。…(略)…
読者の中には『家の光』の共同主義=農業改良主義に触発されて、農村振興の隊列に加わろうとする農民が出てきた(一九二六<大正一五>年二月号)。この読者は「先ず何より収入増加である」と言い切る。利潤追求の資本主義を否定することなく、農業の近代化を図ることが目的だからである。
そのためには米・麦・繭の増収はもちろん、野菜の栽培、果樹の植栽、養畜や副業をおこなう。…(略)…共同主義の理念の下、近代的な農業経営の実践をとおして下層階級からの脱却を図る。『家の光』には希望があった。
<『戦前昭和の社会』(井上寿一著、講談社現代新書)より>
というようなことなどが論じられていたことを多分思い出したせいだと思う。もちろん直ぐ指摘できることは、この『家の光』の創刊時期と羅須地人協会の時代は同じ時期であることである。そして『宮沢賢治とその周辺』の「農業技師」の内容、特に〝労農めいた保守主義〟と『家の光』の〝共同主義=農業改良主義〟の間には強い類似性があるのではなかろうか、と直感したからかもしれない。例えば、羅須地人協会における賢治の諸活動とこの『家の光』の謳っている〝反資本主義、反都市〟などは通底しているのではなかろうか等のように。
そして私は想像した。川原が『宮沢賢治とその周辺』で指摘しているように、岩手県農会に立ち寄った賢治はそこに相当数あった農業関係の蔵書を読んでいた訳だが、その蔵書の中には雑誌『家の光』もあったと。それまでは宮澤賢治と『家の光』が繋がっているなどとは露ほども考えたことなどなかったのだが、きっと賢治は『家の光』を実は読んでいたに違いないと。
たぶんこれらが、第一のドミノ倒し
賢治→家の光
が起こった理由かなと今にしてみれば考えられる。逆に見れば、賢治の下根子桜における活動は、当時疲弊していた農村を何とか救おうという時代の大きな流れの中の一つだったということなのだろう…か。
そしてたしか『家の光』には、犬田卯の記事も結構載っていたはずだ。
続きの
”賢治、家の光、犬田の相似性(#4)”へ移る。
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