みちのくの山野草

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王冠印手帳より

2014-07-02 09:00:00 | 東北砕石工場技師時代
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
「王冠印手帳」より
 先に私は、「東北砕石工場技師時代」に入った賢治にはそれまでとは違った気遣いがあったりして、相当の気疲れがあったにちがいないと危惧したのだったが、それは現実にあったようだ。
 伊藤良治氏は『宮澤賢治 東北砕石工場の人々』の中で次のように論じているからだ。「王冠印手帳」の中のあるページなどを次のように、
 「王冠印手帳」は、昭和六年二月一七日ころから同年五月末前後まで使用されたもので、技師就任早々のメモとして重要な資料価値を担うものである。
    …(略)…
 (一)「わがおちぶれしかぎりならずや」(二月末)
 その「王冠印手帳」の三一~四〇ページ中に六篇の文語詩下書きと見られるメモがある。連続している下書きだが、そのいずれもが技師就任後十日と経たない二月末の記述と推定される。 
 はじめ「王冠印手帳」に書き込まれ、その後下書き稿(二)、そして最終形態(未定稿「せなうち痛む息熱く」)へと変わっていく。ここでは問題にしたい個所だけ抜き出してみる。

 ・下書き稿(一)(「王冠印手帳」)
  ……二月の末の午後にありしか
  あゝ今日は
  一(ママ)貫二十五銭にては
  引き合はずなど
  ぐたぐれの外套を着て考ふることは
  心よりも物よりも
  わがおちぶれしかぎりならずや
  ……


 ・下書き稿(二)
  ……二月の末のくれちかし
  営利卑賤の徒にまじり
  十貫二十五銭にて
  いかんぞ工場立たんなど
  よごれしカフスぐたぐたの
  外套を着て物思ふ
  わが姿こそあはれなれ
  ……


 ・最終形態(未定稿)
  ……二月の末のくれちかみ
  十貫二十五銭にて
  いかんぞ工場立たんなど
  そのかみのシャツそのかみの
  外套を着て物思ふは
  こころ形をおしなべて
  今日落剥のはてなれや

  ……
と伊藤氏は引用して、これらのことなどを基にして
 賢治にとってかつて経験したことのない別次元の世界、それが商行為である。その世界では、どうしても採算を前提に折衝していかねばならない。商売には不向きで不慣れな賢治にとって、それが如何に苦痛を伴うものだったことか。
と断じている。

己を託つ賢治
 一般に詩はそのまま現実生活に還元できないものであるとはいえ、賢治がこれだけ推敲を繰り返しても、いずれの段階でも「十貫二十五銭にて/いかんぞ工場立たんなど」というような個所があるからこれは素直に受けとめていいだろうゆえ、伊藤氏も指摘しているとおり、そこには採算次元で悩んでいる賢治がいることは明らか。
 また同様、いずれの段階でも「ぐたぐれ」「ぐたぐた」「落剥のはて」等という表現があることから、これらはいずれも賢治の真情を吐露しているものであり、嘱託としてスタートしたばかりの2月末時点だというのに、はや賢治はかくも打ちひしがれ、苛まれ、我が身を託っていたということもほぼ間違いなかろう。
 したがって、先に述べた私の危惧は当たっていたといえそうだ。嘱託としてのスタートとは、社会人としてのスタートでもあり、賢治が人生で初めて普通の人と同じような立場に立ったと言える(もちろん、それと似た立場はそれ以前の花巻農学校教諭時代にもあったが、その時代にもらった給与はレコード購入のためにつぎ込んだりしていて、社会人一般のように糊口を凌ぐためには使うということなどは殆どなかった。その頃の賢治は残念ながら社会人としての必要条件を欠いていた)。
 そしてそうであったわけだから、賢治はそのしんどさを周りには隠して猛烈な営業マン振りを発揮せんとして爾後しばらく動き回ったということになり、賢治の心情は察するにあまりある。とはいえ、それは何も賢治に限ったことではなく、そのようなことなどは実は何時の時代でも人が生きていく以上は誰にでもよくあり得ることである。多くの人々にとってそんなことは避けられない当たり前のことであり、それに耐えながら人は生きているのだということもまた現実である。
 言い換えれば、
 「東北砕石工場技師時代」に入って、賢治は多くの人々が経験する糊口をしのいで生きていくための苦労と葛藤を初めて経験したことになる。
と言えるのだろう。そしてその身の処し方の中にこそ、まさしく《愛すべき賢治》が見つかりそうな気がする。しかしまた一方で、それまでの賢治の来し方を思い起こしてみれば、賢治は早晩また挫折をせざるを得なかったのではなかろうかということが懸念される。

「王冠印手帳」瞥見
 先に「王冠印手帳」に書かれた「文語詩下書きと見られるメモ」に触れたので、『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)に載っているその写真を実際に瞥見してみたところ、まずわかったことは、この手帳はその最初のページからしばらくは殆どが数字で埋め尽くされているが、やっと31ページになって初めて「文語詩下書きと見られるメモ」
 隅にはセキセイインコいろの白き女
 おごりてまなりをつぶりてあれば
          暖炉
 蓋をしめたる緑タイルの前あたりには
   …(略)…
              <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)より280pより>
が現れ、その少し後に前掲した例の
 二月の末の午後にありしか
 あゝ今日は
 一(ママ)貫二十五銭にては
 引き合はずなど
 ぐたぐれの外套を着て考ふることは
 心よりも物よりも
 わがおちぶれしかぎりならずや
              <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)281pより>
が書き込まれたりしているということである。
 たしかにそこには「二月の末の午後にありしか」とメモされているし、先にリストアップしたようにその後の推敲を経てもこの「二月の末」の訂正はないから、この時期、昭和6年2月末頃に賢治がこのような心境に到っていたということはまず間違いなかろう。
 またもちろん、このページ以前の数値は営業活動をするに当たっての計算のため等のメモであろう。嘱託の契約をしたのが2月21日だから、その時点から2月末までのおそらく10日間も満たない間に約30ページ弱もの枚数にあれこれと思いをめぐらしながら計算などをしていたといえよう。
 それから私からすれば注目に値するのが、この手帳の15~16pにある
    搗粉 15    90sen
同17~18pにある
    飛粉搗
そして同27p~28pにある
   搗粉トシテ
    25+25=50
        ~0
    35+10=45

という、複数ページにあるいずれも「搗粉」に関するメモである。このことに関しては後述したい。

あらたなるよきみちを得し
 その後のページにも文語詩下書きと見られるメモが続き、やがて43p~44pにはあの
◎あらたなる
 よきみちを得しといふことは
 たゞあらたなる
 なやみのみちを得しといふのみ
 このことむしろ正しくて
 あかるからんと思ひしに
 はやくもここにあらたなる
 なやみぞつもりそめにけり
 あゝいつの日かか弱なる
 わが身恥なく生くるを得んや
 野の雪はいまかゞやきて
 遠の山藍のいろせり
              <いずれも『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)より>
がメモされている。
 このことに関して、佐藤通雅氏は
 「あらたなるよきみちを得しといふことは」とは、肥料による農業改良の仕事をえたことを意味する。しかし現実の場では、そういう理想がまかりとおるるはずもなかった。利潤追求に翻弄される苦渋が、「たゞあらたなるなやみのみちを得しといふのみ」にはでている。
             <『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)223pより>
と読み解いている。
 たぶん佐藤氏のこのような見方が正しいのではあろうが、私にはどうもこのようには断定仕切れない。はたして、「肥料による農業改良の仕事をえたことを意味する」とは言い切れないからである。正直に言えば、このような見方はちょっと良心的すぎるそれではなかろうか。そしてそもそも、佐藤氏は一体何を典拠としてこのような断定的な言い方をしているのだろか。
 もちろん、そのようなことも「あらたなるよきみちを得し」ことの一部ではあろうが、それが全てだとは私には言い切れない。そのような根拠が私には見つけられないからである。実際、それは「壁材料ノ宣伝ニ努メ」なければならないということを含む嘱託契約条項を見れば明らかだと思うし、先に挙げたように、この2月下旬時点で既に「搗粉」のことについてまでも賢治はしばしば思案していたということが明らかだからである。さらには、5月6日付澤里武治宛書簡<*1>において大理石のことを、しかも「大理石のことは絶対秘密にねがひます」とわざわざ最後に念を押して書いているということからは、実は賢治にはもともとあったともいわれている「山師」の部分が頭をもたげてきていることも感じ取れるからである。
 これらのことに鑑みれば、私としては普通に考えて、
 「あらたなるよきみちを得しといふことは」とは、病気も快復して、やっと一人前の社会人として賢治は営業マンという仕事を得たということを意味していたのではなかろうか。
という推定程度でしかものを言えない。
 さてそれはさておき、私が最も気がかりなことは、この営業の仕事を得たというこは「たゞあらたなるなやみのみちを得し」ことであるともうこの時点<*2>で賢治がメモしていたということである。これは文語詩の単なる下書メモだったのかもしれないが、前後のメモの一連からはその頃の賢治の偽らざる真情であったと考えてもそれほどの違いはなかろう。
 したがって、周りには爾後も猛烈な営業マン振りを発揮せんとしてしばしあちこちあれこれ動き回ったとしても、内心このような悩みを抱えておれば、まして賢治は病み上がりでもあり体調は万全とは言い難いのだから、また挫折をせざるを得ないことはもはや時間の問題であったであろう。
**************************************************************************************
<*1:註> 339 澤里武治あて 封書
    《表》上閉伊郡上郷村 高橋武治様
    《裏》昭和六年五月六日 岩手県花巻町豊沢町 東北砕石工場花巻出張所 〔封印〕〆
    五月六日
しばらく失敬しました。お変りありませんか。この二ヶ月は歩いてばかりゐましたがお蔭でからだもいよいよ丈夫になり仕事もどうやらできかゝりました。
就て五月十日に兼々頼まれてゐた軽鉄沿線の大理石の調査に出ますがあなたの村の細越辺並びに遠野の肥料店へ立ち寄る積りです。当日は日曜ですがあなたもしご都合つけばご一諸できませんか。もしあなたの家の山の岩も採って置いて見せて下さるならことに幸です。例の達曾部の大理石山があまり遠い為に他の石をも併せて出したいと云ふのです。
   遠野駅へ  九時三〇分に出て下さるか
   上郷駅へ  一〇時一一分に出て下さるか
   または当日都合が悪いか至急お知らせ下さい。大理石のことは絶対秘密にねがひます。
宮沢
             <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)335p~より>
<*2:註> 伊藤良治氏はこの時期を仕事を始めて半月と経たない頃と見ている。
              <『宮澤賢治と砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)131pより>

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