平成24年9月1日付岩手日報に
〝イギリス海岸出現〟
という記事が出ていた。ここ連日の猛暑のためだろうか、北上川の流量が激減して泥岩層が水面から露出しているという。その記事によれば、平年の8月の流量の3分の1しかないということである。
このことを知って私はもちろん早速出かけた。まずは、
《1 瀬川との合流部の上方部分》(平成24年9月1日撮影)
《2 〃 》(平成24年9月1日撮影)
《3 下流を見やれば》(平成24年9月1日撮影)
川岸に下りて泥岩の上に立てば
《4 》(平成24年9月1日撮影)
《5 》(平成24年9月1日撮影)
《6 》(平成24年9月1日撮影)
《7 》(平成24年9月1日撮影)
《8 》(平成24年9月1日撮影)
《9 もしかすると例の〝象の足跡〟?》(平成24年9月1日撮影)
次に瀬川との合流部より下方に行ってみると
《10 川の中央部にも泥岩が現れている》(平成24年9月1日撮影)
《11 》(平成24年9月1日撮影)
《12 》(平成24年9月1日撮影)
岸辺の散策路に80歳頃の老紳士がいた。やはり日報の記事をみて実際見てみようと思いたって来られたのだそうだ。その方が仰るには
子どもの頃は、この北上川を渡りきって
《13 対岸》(平成24年9月1日撮影)
対岸の畑に成っていた西瓜を無断て食べたものだ。また向こう岸の子どもたちは子どもたちで、こちらの岸まで泳いできて岸の畑に植えてあったリンゴをもぎとってかじったものだ。当時は、だれもこのような子どもたちの行為を咎めることなどをせぬおおらかな時代であった。
ということであった。ただし、その紳士も
『さすがに蔓がついたままの数個の西瓜を同時にとってきた際には咎められたが…』
と苦笑いをしていた。
そういえばたしか、
続きの
”岩頸列(がんけいれつ)”へ移る。
前の
”新たな「賢治墓所案内」”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
〝イギリス海岸出現〟
という記事が出ていた。ここ連日の猛暑のためだろうか、北上川の流量が激減して泥岩層が水面から露出しているという。その記事によれば、平年の8月の流量の3分の1しかないということである。
このことを知って私はもちろん早速出かけた。まずは、
《1 瀬川との合流部の上方部分》(平成24年9月1日撮影)
《2 〃 》(平成24年9月1日撮影)
《3 下流を見やれば》(平成24年9月1日撮影)
川岸に下りて泥岩の上に立てば
《4 》(平成24年9月1日撮影)
《5 》(平成24年9月1日撮影)
《6 》(平成24年9月1日撮影)
《7 》(平成24年9月1日撮影)
《8 》(平成24年9月1日撮影)
《9 もしかすると例の〝象の足跡〟?》(平成24年9月1日撮影)
次に瀬川との合流部より下方に行ってみると
《10 川の中央部にも泥岩が現れている》(平成24年9月1日撮影)
《11 》(平成24年9月1日撮影)
《12 》(平成24年9月1日撮影)
岸辺の散策路に80歳頃の老紳士がいた。やはり日報の記事をみて実際見てみようと思いたって来られたのだそうだ。その方が仰るには
子どもの頃は、この北上川を渡りきって
《13 対岸》(平成24年9月1日撮影)
対岸の畑に成っていた西瓜を無断て食べたものだ。また向こう岸の子どもたちは子どもたちで、こちらの岸まで泳いできて岸の畑に植えてあったリンゴをもぎとってかじったものだ。当時は、だれもこのような子どもたちの行為を咎めることなどをせぬおおらかな時代であった。
ということであった。ただし、その紳士も
『さすがに蔓がついたままの数個の西瓜を同時にとってきた際には咎められたが…』
と苦笑いをしていた。
そういえばたしか、
花巻農学校時代の賢治はあるとき、向こう岸まで生徒達を泳がせて川岸の畑に成っていたスイカを食わせたというエピソードが伝わっているが、実は賢治は事前にその畑の持ち主にスイカ代を支払っていた。
という逸話があるが、当時の子どもたちにすれば盗むなどという認識はさらさらなかったということであり、その必要もなかったということなのだろう。続きの
”岩頸列(がんけいれつ)”へ移る。
前の
”新たな「賢治墓所案内」”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます