みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1224 夜の水見張り

2009-11-06 08:00:56 | 岩手の冷害・旱害
 以前”田日土井(その1)”において、ヒデリによる渇水のために宮澤賢治も携わった樋番のことに少し触れたが、旱害の実情をもっと知りたくなったので岩手日報の過去の記事を調べてみた。

 まずは、樋番の実際は次のようなものであったであろう写真記事について。
 それがこのブログの先頭にある写真であり、大正15年7月15日付岩手日報のものである。
 ▽交代で必死となつて夜の警戒……(写真は紫波郡志和村の滝名川の分水地点の物々しい夜の見張りであるが今日迄にこうした警戒が三十八日に及んで居る)
と説明がついている。

 斯くの如き夜の警戒を少なくとも三十八日も続けていたと云う事実をこの記事で知り、如何に農民にとって”夜の水見張り”が辛くて空しいものであったかということが容易に理解出来る。
 続けて
 旱害からこの惨状 |せめて田一枚でもと一族総出で水運びに必死の家最後の策に| 泣きの涙で愛馬を売る
十三日得能知事一行は紫波郡内の旱害状況を視察して何れもその惨たんたる状況をまのあたり眺めて、ただ驚くほかなかった、今かん害惨話といつた二、三を紹介する
 赤石村 では二万円の巨費を投じて北上から上水してゐるが十三日午前、同村藤尾新太郎(二〇)は動力使用中高圧線に触れ無惨にも感電即死
 志和村 高橋某の一家族は毎日のかん天に水田が亀裂が生じ稲が枯れ死するのでせめて、田三枚(約一反)でもといつて大きな井戸を掘り昼夜兼行で水をかけてゐる始末
 不動村 の某は飼ってゐたぶた数頭をうりはなしたがこの酷暑で蔬菜も育たぬので日に日に生活に困窮して只一頭の愛馬をうりはなさうと相談中とか
このほかまだまだあるようであるが農村が次第次第に疲弊して行くので娘まで売るなどの悲惨事はできかねない状態だ

と記事は続く。

 少なくともこの当時、ヒデリだからといって『ヒデリにケガチなし』などと暢気なことは言っていられなかったということにますます確信が増してきた。とりわけ紫波郡内の
【赤石村・志和村・不動村】

  <『昭和10年岩手県全図』(和楽路屋発行)より抜粋>
などはもう7月時点でこの年の凶作の虞を予感していたかもしれない。それも前年、前々年に続く凶作を。

 では、なぜ樋番(夜の水見張り番)をするのであろうか。たぶん水争いが起こるからであろうから、その関連記事を探して次回は報告したい。

 続きの
 ”引き続く紫波の渇水”へ移る。
 前の
 ”田日土井(その3)”に戻る。

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1223 ヴィンケルマッテンを目... | トップ | 1225 ツェルマットの街中 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

岩手の冷害・旱害」カテゴリの最新記事