みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

賢治と結びつけられることを拒絶するちゑ

2014-02-09 08:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
ちゑ自身はどう思っていたか
鈴木 でも問題は、ちゑの方が一体どう思っていたか、と吉田は言いたいんだろ。
吉田 そうなんだ。「「三原三部」の人」を通読してみれば、ちゑ自身は全くそうは思っていなかったことがそれこそ判然としている。
 たとえば次の、ちゑがMに宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の一節、
 皆様が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られます御方に、ご逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の為に、私如き卑しい者の関わりが必要で御座居ませうか。あなた様のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆様の陰に隠れて静かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた事(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)157pより>
から判るように、ちゑは賢治と「約丸一日大島の兄の家で御一緒」してみて、賢治とは結婚できないとちゑ自身が「あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた」とはっきり言い切っている。また、わざわざ「(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)」と書き添えて、家族も反対しているのだと駄目押しさえしている。
 さらにだ、Mがちゑのことを書いて載せた短歌雑誌『六甲』をちゑに送ったことに関連して同書簡では、
 今後一切書かぬと指切りしてくださいませ。早速六巻<*2>の私に関する記事、抜いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。…(略)…
 さあこれから御一緒に原稿をとりに参りませう。口では申し上げ切れないと思ひ、書いて参りました。どうぞ惡からずお許し下さいませ。取り急ぎかしこ。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)158pより>
と、「六巻」ということだから、十字屋書店版『宮澤賢治全集第六巻』からは関連する原稿を抜いて欲しい、さあ一緒に取りに行きましょうとまで言ってちゑはMに迫っている。
鈴木 ちょっと待てちょっと待て、ちなみに今調べてみたのだが、『宮澤賢治と三人の女性』の114pにはM自身が 
   全集六巻の解説中に簡単に触れておきました。
と言及しているものの、私が所有している十字屋書店版『宮澤賢治全集 六巻』には、それは昭和27年発行第3版だが、そこにはMの「解説」が所収されておらず、あるのは『同 別巻』の中にある。
 それからえ~とえ~と、『修羅はよみがえった』を見てみると
 第六回配本の「雜篇、別巻」の年表・書翰等は新たに編集することを要したし
              <『修羅はよみがえった』(宮沢賢治記念会、ブッキング)158pより>
と述べられていることから、ここでMが言っている「全集六巻の解説」とはおそらく間違いなくこの『同 別巻』所収の
    「全集第六巻並に別巻解説」
のことであろうと判断できる。
ちゑはきっぱりと拒絶していた
吉田 どこどこ、済まんが鈴木ちょっとそれを見せてくれないか。
 あっ、やっぱり。ほらこの「解説」の中にはちゑに関する次ような記述がある。
   書簡の反古に就て
 …あとの方の同文らしい三通の反古は、伊豆大島に療養中の著者の友人に宛てたもので、この友人は兄妹で大島に住んでをりました。…(略)…友人の妹である女性は、著者の方から結婚してもよいと考へたこともあつた女性であります。それは遂に果たされなかつたのですが、この著者の結婚に對する考へについては、事が重大でありますし、――この短文で良く書きつくせるところではありませんから後日に譲ります。ただその一人の女性が伊豆の大島に住んでゐたことと、著者が力作「三原三部」を残し、
  ……南の海の
    南の海の
    はげしい熱氣とけむりのなかから
    ひらかぬままにさえざえ芳り
    ついにひらかず水にこぼれる
    巨きな花の蕾がある……(第二巻二五八頁)
といふ六行の斷片が、深くこれに對する答へを暗示してゐると私は見ます。
とある。
荒木 つまり、いま吉田が読み上げた部分に相当する原稿を
   抜いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。
とちゑは懇願し、
   さあこれから御一緒に原稿をとりに参りませう。
とMに具体的な行動をとるように強く迫ったということか。
吉田 そしておそらく、それが為されないであろうと見通してちゑは、再度Mに同年2月17日付の手紙を出して、
 ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪悪とさへ申し上げたい。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)164pより>
とMの行為をはっきりと断罪しているわけだ。
荒木 じぇじぇじぇ、そこまでちゑはやってたのか…完全なる拒絶だな。よっぽど結びつけて欲しくなかったんだべ。
吉田 そう、賢治と結びつけられることを伊藤ちゑきっぱりと断っていたのさ。
関係者の証言も裏付けている
鈴木 考えてみれば、ちゑの実家は大金持ちだからおそらくお嬢さん育ちだし、ちゑは当時の言葉で言えば「モダンガール」、翔んでる女性の一人であったとも仄聞している。一方の賢治はその頃は定職も持たない当時の言葉で言えばそれこそ「高等遊民」だった。
吉田 しかも、同書に載っているのだが、ちゑがMに宛てた手紙の中で
 たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて、花巻にお訪ね申し上げたとは申せ…
            <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)162pより>
としたためていたことからは、「伊豆大島行」に関わる見合いはちゑが年老いた母に義理立てしてやむを得ず、しぶしぶした見合いであるということがわかる。ちゑはもともとこの見合いには乗り気でなかったのだ。
荒木 それゆえにこれだけ頑なにちゑは拒絶したのかもしれんし、昭和3年6月に賢治を見送った後のちゑが賢治に対してどう思っていたかは既に明らか。にもかかわらず、Mはそれを無理矢理に結びつけようとした。
鈴木 さっき吉田も指摘したように、賢治と一緒になることはないと「一人ひそかにお誓い申し上げた」ということをちゑは先の書簡に書き記しているわけだが、このことをズバリ裏付ける『私×××コ詩人とお見合いしたのよ』<*3>という発言をちゑ自身が知り合いに対してしていたということを、私は複数の人から聞いている。そして複数の人がこのことを私に教えてくれたのだから、このちゑの発言は一部の関係者の間ではよく知られていることでもあろう。
 また私自身も、「(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)」を裏付ける証言を直接関係者から聞いてる。

 しかも、賢治と無理矢理結びつけることは止めて欲しいと必死になってちゑが懇願しているのはこの時のM宛の書簡のみならず、先に引用した10月29日付藤原嘉藤治宛書簡でもちゑは同様なことを次のように
 又、御願ひで御座います この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄をお訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
と書き記している。
吉田 ちなみに、実際にその「御本の後に御附けになりました年表」を見てみると
 昭和三年 三十三歳(二五八八)
  六月十三日、伊豆大島へ旅行、兄七雄の病を療養看護中の伊藤チヱを訪れ、見舞旁々、庭園設計を指導し、詩「三原三部」を草稿す。
              <『宮澤賢治全集 別巻』(宮澤賢治著、十字屋書店、昭和27年第3版)より>
となっている。
『伊藤チヱも高瀬露と同じ被害者』
荒木 Mに対してのみならず、嘉藤治に対しても同様のお願いをしているわけだから、伊藤ちゑの本心はもはや明らか。それも、俺からみればこの十字屋版の年表であればさほど問題のある内容とも思えないのだが、このような内容でさえも
 今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄をお訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
と哀願しているわけだから、伊藤ちゑが賢治と結びつけられることをどのように思っていたかは言わずもがなだ。
吉田 まさしく、ブログ“「猫の事務所」調査書”の管理人 tsumekusa 氏が
Mは結局そんな伊藤チヱの願いを無視してしまいました。
そして他の賢治研究家たちもMの著書から
伊藤チヱの願いを見ているであろうにもかかわらず同じくそれを無視してしまいました。
伊藤チヱの気持ちを踏みにじってしまったのです。
高瀬露が多くを語らないからと好き勝手に書くのも悪質ですが、
伊藤チヱがこうやって一生懸命に訴えているにもかかわらず
それを無視して書いてしまうのもまた悪質です。

願いは聞き入れられず気持ちは届かず、
自分のことを大々的にそして過剰に美化されて伝えられてしまった
伊藤チヱの心の傷は如何ばかりだったでしょうか。
良く書かれたか悪く書かれたかの違いはあれど、
伊藤チヱも高瀬露と同じ被害者なのではないかと考えています。
と主張するとおりだと僕も思う。
鈴木 なお伊藤ちゑは、先ほどの嘉藤治宛書簡の最後に次のような歌
 彼岸花見つゝ史跡をめぐりたる大和の秋の旅をし想ふ
 大和路の秋をめぐらん日の有りや病みこもる身の儚きあくがれ
を詠んでいるし、ちゑは同書簡中に
 幾年か前六郎兄と歩いた大和地方の秋の事を思ひ出して居ります
としたためているから、この歌についてはその時の事を詠った歌であろう。行ったのは六郎ということだから、おそらく七雄が亡くなってからの旅だったのだろう。
荒木 あれだけMに哀願し、懇願したのにそれが叶わなかったちゑの心情を察すれば、この歌はかえって切なくなるな…。おそらく「彼岸花」に兄七雄のことを託して詠ったに違いない。
 ところで、前に吉田が言っていた「伏線」はこれらとどう繋がるのだ?

<*2:投稿者註> この「六巻」の部分は、『宮沢賢治の肖像』では
 今後一切書かぬと指切りしてくださいませ。早速六甲の私に関する記事、抜いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。
となっていて、「六巻」→「六甲」と書き変えられている。
<*3:投稿者註> 現時点ではこの発言を活字にする事は憚られるので一部伏せ字にした。

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3 コメント

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文遊理道樂ブログなんとか (辛文則)
2014-02-09 17:50:01
鈴木守様
   ご無沙汰致しておりました。先生に作っていただいた二つのブログ、何とかカタチにしました。〈文遊理道樂庵〉の〈画房(アトリエ・ギャラリー)〉と〈山房(書斎・談話室)〉という趣にして、暫くは進めてみたいと考えています。画房の方は、二人の子ども達には無断なので、頑強に抗議してきたなら削除もありえますが、……。
   何方も、「HPあるいはブログを作る時は自分で作るので、勝手に名前や写真使わないでよね!」とか主張してますし、宮澤家とは違って(……?)、辛家は父権より母権が強く、母権は夫権より吾子権の方を重視する家族社会、つまりは〈母権イデオロギーファミリアコスモス〉ですので。
〈史子の部屋〉の主なる〈コスモス歌人吉田史子〉は、「私はリベラルなインディヴィデュアリストよ。」という矜恃を保ち続けて来た女人という次第で。〈か弱い父親〉としては、「オドウにも少しは我儘道(い)わせてくれよ……」、とまぁ、「シリアス(真面目)なジョーク(冗句)」を並べました。
   子ども達の作品については、既発表作品だけをアップし、もし、この画房ブログ継続が許可されたら、そのデザインは子ども達に委ねたいと考えています。それぞれが、独自のHPを作るのは「自分の画力で飯を食える画工」になれてからで、などと、父親としては願っているのですが。
           2014,2,09       辛文則 記 
   
返信する
賢治を天才とみるか天災とみるか (辛 文則)
2014-02-09 17:53:51
  鈴木守 様 

   話は変わりますが、守先生が追っている、〈露さん〉と〈伊藤さん〉の賢治への向是去就の様を伺っていると、「天才という吉凶禍福の明暗一如」を思わずにはいられません。
   ご承知のように、賢治は、誰に向ってなのかはもうひとつ定かではありませんが、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」とか、「吾等はまことの幸福を索ねよう」などと書き記し、それを他者に対けても呼びかけた〈人人(にんにん・一個人)〉ですよね。
   小生は、この「〈世界がぜんたい幸福〉の〈世界〉」とは、〈外的世界(マクロコスモス)〉つまりなの〈個人外コスモス〉なのか〈内的世界(ミクロコスモス)〉つまり〈個人の内面世界〉との何方なのかについて自問し、一般解に反し、後者だと結論付けています。
というのも、前者だと観ると「八紘一宇肯定論との同一化を阻止できない」と思わずにはいられませんし、「吾等個々人固有の幸福とは如何なるか?」という〈己事究明の自在遊楽〉wが風樹られて封じられてしまうようにかんじられる観じられるからです。解り易くいえば、「賢治は〈全体主義(トータリタリアニズム)的幸福観〉を是としていた」という非難に抗する術がなくなるのでは、と。この種の問いを突き詰めると、畢竟するに、「『農民芸術概論綱要・序』なるテクストを如何に読むべきか?」という難有い問題に行き着いて仕舞いますので、……。
   で、始めに戻って、「〈天才〉の妻になることの吉凶禍福」について、〈露さん〉と〈伊藤さん〉はどんな風に感じていたのかしらん、などと。
   イメージとしては、〈露さん〉は〈理想主義的ロマンティスト〉、〈伊藤さん〉は〈現実主義的レアリスト〉という趣きがありますね。固より、〈露さん〉とて、賢治に比べれば、はるかに、「生活者として現実主義的」であった筈です。さもなければ、尋常小学校訓導など務まる筈はありません。但し、〈露さん〉には「奇矯な天才」に対する憧れは働いたこのしれませんが、〈伊藤さん〉にはその種の〈物好きな感情〉は働かなかったと推量しても、……。
   で、例えば、漱石がその『文学論』で述べているような天才観に立てば、普通の庶民の生活感や幸福感から見ると、「天才とは天災に他ならない!」のですから、「普通の幸福な夫婦生活を送りたいのなら賢治の如きには決して近づくべからず」、となる訳なのですが。
   では、賢治自身は、自分自身のことを〈天才〉と考えていたか否かについてどんな塩梅の見方ができるのでしょうか。世俗常識的な天才観からいうと、「私ごときが天才だなどと滅相もございません」、などと謙遜ぶるのでしょうが、「天才とは人間の中で最も不幸なる者なり」という漱石『文学論』での天才観に照らすとどういうことに、と。で、小生としては、賢治が『吾輩は猫である』や『草枕』だけでなく、その『文学論』をまで精読していたのではないか、と疑ってみたい訳です。で、「賢治が〈漱石流天才観〉を読んだとしたならどんな受け止め方をするだろうか?」、と。岩波茂雄が大正七年に漱石全集を出し始めて以後は、上野の図書館などでは、……。
   で、「大正十四年の賢治は何故に岩波に対けて手紙を書いたのか?」、などとも。
因みに、様々な〈天才(死後天才と評価して貰えたごく幸運なる天才たち)〉の伝記を読んでいた学生時代にそれと出会って、「然り宜なるべし」という心象を懐いたものでした。
たとえば、「一九二七時点の賢治の心身」について考えてみると、「俺は労咳という宿痾に捕って仕舞った(発病した)。余命は長くて十五年か。」と自覚したのが大正七(一九一八)年。宮澤トシの発病も同年で四年後の大正十一年には亡くなって……。左様に考えて遊ぶと、昭和三年の大患以後の賢治は、「俺の生命は明日をも知れぬ」という自覚と、「俺は(普通の)人間としては最も不幸なる天才なのかしらん」という自覚とを持ち合わせていた〈単独者(モナド)〉的な個人であったという賢治観を描き出すことは、……。
   〈奇矯な賢治〉像をイメージする上でのひとつの視点として、……。

返信する
時々拝見しております (辛様へ(鈴木より))
2014-02-09 23:18:05
 こちらこそご無沙汰しております。
 貴ブログ時々拝見しております。日に日に充実していっているようで楽しみですし、健闘を祈っております。

 さて、賢治は?と問われれば、もちろん彼は天才だと思っております。あの『春と修羅』一つとってみても、あのようのものをスケッチできる人は今後二度と現れないのではなかろうか思っているからです。
 一方、露とちゑのそれぞれの評価ですが
  〈露さん〉は〈理想主義的ロマンティスト〉
  〈伊藤さん〉は〈現実主義的レアリスト〉
という分析はなるほどなと思っております。
 そして歌人の〈露さん〉には「奇矯な天才」に対する憧れや、農民のために献身しようとする賢治のその姿勢とクリスチャンとして通底するところがあり、賢治を尊崇していたことは間違いないと思っております。
 それに対して、〈伊藤さん〉には少なくとも露のような憧れも尊崇もなかったと思います。なによりちゑと賢治は2回会っただけですし、しかもその際に、ちゑは賢治の足元を見ていただけですから無理もありません。また、そもそもちゑは当時のモダンガールであり、一方の賢治は「高等遊民」であったわけで二人は住む世界が全く違っていたと思うからです。
 そして、住む世界が全く違うという観点から言えば、当たり前のことですが賢治と私もそうです。
 かつての私は賢治の求道的な生き方を尊敬しておりましたし、またそこが魅力でもありました。ところが、調べれば調べるほど彼はそのような生き方などしておらず、それこそ彼の生き方はまさしく「不羈奔放」だったと思うようになって参りました。だからこそあのような素晴らしい作品を創れたのだ、ともです。
 なお、彼は晩年になるとかつてのような才能が次第に失われていっていることに気付き始めたと私は考えております。それ故に、「不羈奔放」だった彼も次第に普通の人間に似たような側面が表出するようになっていったようです。その結果の現れの一つが〔雨ニモマケズ〕だと私は思っております。
 そして、賢治の中に生じたいわば二つの相のズレに次第に耐えきれなくなってしまった彼は、緩やかな自死を選んだのだと私は推測しております。
 労咳という宿痾の自覚などよりは、何一つ長続きしなかった自分だったと自覚したときに、「俺は人間としては最も不幸なる天才なのかしらん」と思ったかもしれませんね。
                                                             鈴木 守
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