みちのくの山野草

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甚次郎の農民に対する姿勢との違い

2018-02-19 10:00:00 | 法華経と賢治
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》

 さらに理崎氏は、
 農村の活動で、甚次郎の農民劇は頭初、集落の総代に止められている。会の活動も青年団に迫害された。周囲の反対、無理解の中、ある時は妥協し、ある時は説得して粘り強く交渉して乗り切っている。小作料の引き下げ交渉では、村の中で見方を一人一人増やし、有力者を説得し、最後にまったく動こうとしなかった村長も渋々翻意している。長い時間をかけて多くの人々と対話してわかってもらえるように根気強く行動しているのである。それに対して羅須地人協会に来る者だけを相手にして、反対者に対して説得することもない。もっとも、甚次郎の場合には反対者がいては事業が進められない。協会では反対者がいても悪口を言われるくらいで影響はあまりない。
           《155p》
と、二人のそれぞれの活動における取り組み姿勢を比較しながら評していた。言われてみればその通りだ。岩手県人は粘り強さがあるが、賢治は天才なるが故にだろうかその傾向はあまりなく、熱しやすいが冷めやすいという性向が見られる。一方の甚次郎は岩手県人ではないが、それこそ粘り強く、着実に事を進めていくタイプだった。

 ちなみに、松田甚次郎の書いたベストセラー『土に叫ぶ』(羽田書店)によれば、
   小作人たれ/農村劇をやれ
と賢治から強く「訓へ」られた甚次郎は、ふるさと鳥越に帰って、早速
  父から六反歩の旱魃田の小作を許され
て小作人になったわけだが、もちろん農村劇(農民劇)にも取り組んだ。のみならず甚次郎は、生活改善や農村向上にも力を割いた。そしてその際の甚次郎の姿勢は、私もかつて『土に叫ぶ』や『村塾建設の記』(松田甚次郎著、実業之日本社)そして『続・土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)あるいは『「賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)を読んでいたので、理崎氏の先の評どおりだということはまたま知っていた。
 その一方で、賢治評もまたそのとおりだと思う。それは、
「羅須地人協会時代」の賢治は農民のため、とりわけ貧しい農民たちに対する稲作指導のために風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に病に倒れたが、彼の稗貫の土性や農芸化学に関する知見を生かした稲作指導法によって岩手の農業は大いに発展した。
とかつては思い込んでいた私だが、その実態は、
   〈仮説〉賢治が「羅須地人協会時代」に行った稲作指導はそれほどのものでもなかった。
ということを私は検証できた(このことに関しては近々出版予定の『本統の賢治と本当の露』で明らかにしたい)からだ。

 そこで、この件に対する私の賢治評はこの頃は厳しいものとなってしまったが、理崎氏は違っていて、賢治を見る目は次のように温かく評価も高い。
 しかし、賢治が理想から現実に下りていく努力を続けたのも確かである。理想から現実へ下りていく。これが法華経信仰の特徴で「従果向因」という。従来の仏教は「従因至果」――善行の因を積み重ねていって仏という果に至る。対して法華経は果――仏の境涯と同じ決意に立って現実の世界へ下りて行って、仏と同じ慈悲を行うのである。そうした理念によって農村に飛び込んで一人一人の農民と接していった行動は評価してよいのではないか。
           《156p》
 たしかに理崎氏の言うとおり、私も賢治は「下りた」、いや「下りようとした」と思う。が、私はそこに賢治の限界があったと思っている。いわば、賢治は下降思考であり、救ってやろうという意識が先にあり<*1>、一方通行で終わってしまっている。これでは当然限界が伴う。一方の甚次郎は下りるのではなくて、水平思考で実践したと、つまり周りの人たちと一緒になって問題を解決しようとした、という大きな違いがあったと今までの私は二人の違いを捉えていた。
 ところがどうやらそのような見方は一面的であり、もっと法華経信仰、法華経精神という面からも見直さねばならないようだ。しかしそれは、私にとっては頗る困難だということはほぼも明らかなのだが。

<*1:投稿者註> 川村尚三は、
 農民は底に叛逆思想をもっていて救いがたいがとにかく一番困ることに手助けしてやらねば……というようなことをいったのも記憶している。(花巻市宮野目本館、川村尚三談、一九六七・八・一八)
             <『岩手史学研究 NNO.50』(岩手史学会)220p~より>
という。したがって、実は賢治には抜きがたい差別意識があって、それから抜け切ることができなかったのではなかろうかと私は判断している。
 また、例の「10番稿」封印の理由について、木村東吉氏は、
 ・これもまた倨傲あるいは「慢」の思想と捉えたとして不自然ではない。
 ・作品選択基準が…(投稿者略)…高踏的な姿勢で農民批判をした作品群が10番稿に整理されている理由も容易に理解できる。
 ・農業指導に関することでも、詩人自身の指導者意識が現れたものは封印されていることである。
ということなどを論じていることからも、それが窺える。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。


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