みちのくの山野草

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昭和3年4月の賢治

2015-08-01 09:00:00 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 では、昭和3年4月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、
四月一〇日(火) 田中義一内閣は、この日安寧秩序を害するものとして労働農民党および日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体に解散を命じた。
 伊藤秀治(伊藤椅子張所経営)談。
「労農党の事務所が解散させられた、この机やテーブル、椅子など宮沢賢治さんのところから借りたものだが、払い下げてもいいと言われた、高く買ってくれないか、と高橋(慶吾)さんがリヤカーで運んできたものだった、全部でいくらに買ったかは忘れたが、その机、テーブル、椅子などは今度は町役場に売ったと覚えている。」
四月一二日(木) <台地>。稲作指導、肥料設計についてきてくれたふたりの友、藤原嘉藤治、菊池武雄がえがかれている。
四月 この年四月付発行「岩手県農会報」一八八号に「農界の特志家/宮沢賢治君」の記事が掲載されている。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>
のようになっていて、詩については下表のように、
【賢治下根子桜時代の詩創作数推移】

             <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
ほんとうに暫くぶりに一篇だけ詠まれていて、その題は<台地>であった。
 そこで、その詩<台地>の中身を見てみよう。それは次のような詩だった。
 台地           一九二八、四、十二、
   日が白かったあひだ、
   赤渋を載せたり草の生えたりした、
   一枚一枚の田をわたり
   まがりくねった畔から水路、
   沖積の低みをめぐりあるいて、
   声もかれ眼もぼうとして
   いまこの台地にのぼってくれば
   紺青の山脈は遠く
   松の梢は夕陽にゆらぐ
   あゝ排水や鉄のゲル
   地形日照酸性度
   立地因子は青ざめて
   つかれのなかに乱れて消え
   しづかにわたくしのうしろを来る
   今日の二人の先達は
   この国の古い神々の
   その二はしらのすがたをつくる
   今日は日のなかでしばし高雅の神であり
   あしたは青い山羊となり
   あるとき歪んだ修羅となる
   しかもいま
   松は風に鳴り、
   その針は陽にそよぐとき
   その十字路のわかれの場所で
   衷心この人を礼拝する
   何がそのことをさまたげやうか
              <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
 ただし、この詩の記述内容だけからでは、
 稲作指導、肥料設計についてきてくれたふたりの友、藤原嘉藤治、菊池武雄がえがかれている。
とは言い切れない。また、その断定した根拠も明示されていない。
 そもそも詩というものが、検証もせずに即事実に還元できるという保証があるわけではないのだが、それ以上に、そこに書かれてもいない(それはこの詩篇の下書稿にも書かれていない)ことがなぜこのように『新校本年譜』は断言できるのだろうか、私には極めて不思議なことである。
 そこで考えられることは、藤原嘉藤治は日記を付ける習慣があったからその日記によってそれがわかったのかも知れないということだ。ただし、私がかつて藤原嘉藤治の家の所蔵されている藤原嘉藤治の日記を見せてもらったのだが、その当時の日記だけがどういうわけかすっぽりと抜け落ちていた。まあ、賢治に関わる人達のあったはずの日記が現在は行方が不明だということは藤原嘉藤治の場合に限ったことではないのだが…いずれにせよ、かなり奇妙なことである。

 なお、「四月一〇日(火)」の記載事項もとても気になるところだが、この記述内容からは4月の賢治についての直截的なことは何も言えそうにないので、このことに関しては現時点では触れるわけにはいかないだろう。

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